見出し画像

時代は進化し、人間の精神は退化する。

 「若いの笑うな来た道だ、年寄り笑うな行く道だ。」こういった言葉をどこかできいたことがあるだろう。事実そうだ。私たちはかつて、戦後の第二次ベビーブームに生まれた。その私たちですら当時「新人類」とよばれ、当時のおじさんたちの世代を悩ませたものであった。最近の若者を、最近のおじさんが理解できないと呆れるのは、それはそれでいいのではないのだろうか?時代がものすごい勢いで日々変化してゆくのだから、よくも悪くもそういう流れは誰にも止められない。そう、なるようにしかならないのである。

 それは、なすがままやりたいことをやるという猫やなんかのような動物的な畜生の類のものではない。私たちは人間だ。畜生ではない(最近、「瞬間湯沸かし器」のような若者が一部いることは残念だが…ケトルとでもいったほうがいいのかな?)私たちの世代は、先輩後輩の関係が非常に厳しく、しないを持った教師がいたものだった。部活でも、厳しくしつけられ(いじめ?もあったが)「忍耐」というものを、叩き込まれたものであった。それが、私たちの時代の背景にはあった。あなた方の親のもう少し上だろうか?
全て物事を「古いよそれは」と言ってしまえば、あなたの世代で全て終わりだ。

 若いのがずっこけてみて初めて気が付くことも、それは先輩や年寄りは口に出さないだけで、皆知っていて黙っている。いくらYOUTUBEやPCやスマホで、結論ばかり知ってしまっても、その途中の肝である、経験だけは疑似体験しようとも、どうやっても感じとることはできない。ただ、知識として知っていることと、体験を通して知っているのとでは、全くもって別のものであろう。知識として知っているのは、ただ知っているだけで本当の意味での知るということにはならない。経験の裏付けのない、「知っている」ということは、ごみ同然だろう。

 最近の子は全体的に頭自体は賢いと思う。理解し始めている子は、さっさと先輩に対する対応を変化させている。非常に賢い選択であろう。ここは、いくら泣いても叫んでも一番住みやすいといわれる日本だ。ここで生きてゆくのなら、先輩方を大切にするほうが、私は賢明な選択であると思う。

 若い人は、「あのくそじじい」という。歳よりは「あのクソガキ」という。そんなことは言っていても選択肢は最終的には殺し合いしか残らない。どこか、この辺でまぁまぁ、といったお互いに表面上だけでも「人を許す」というところで落ち着いてもいいのではなかろうか?「人を許せなかったら」それは、人間ではない。動物だ、それに人を許せない自分自身だって辛いだろう。もっと皆が皆、人を許すという気持ちを持たなければ、時代はどれだけ進化しても、人間の退化は止まらないだろう。道徳が失われる現在、未来を望むのなら、自己啓発をしてもっと自分を見つめなおし「人を許すこころをやしなう」ことは個々に課せられた未来への課題ではなかろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?