肉声— 大森静佳『ヘクタール』より
歌のかたちをはずれてふいに戦ぎたる大森静佳というひとの声
短歌をはじめてから気がつけば7年の月日が経った。その7年の間に、失ったもの、手にしたもの、諦めたもの、夢見続けたもの、それぞれどれほどあっただろうか。
変わらないものもある。短歌という小さな世界に、その世界の狭さに、いまだに僕は驚きを隠せないでいる。歌会や批評会を通じて出逢った人たち。そのなかには、教科書に名を連ねているような歌人もいる。歌壇の中枢で、第一線で活躍しているような歌人にも出逢えてしまうこと。その距離感に僕は惑い続けている。
先日、刊行された著者の第三歌集『ヘクタール』は、この一首をもって幕を開ける。一見穏やかなようでその実、内にはかり知れない激しさを秘めている。ときに畏怖を覚えるような歌の数々は、容易に読者を近づけてはくれない。
風や光、花や木や水を見つめる眼差しのその先に、時間や空間を、あるいはもしかすると〈私〉という個をも越えたところにある感覚を捉えようとしている、そんな印象を抱いた。鋭敏で繊細な感受性、というよりも、心ではなく身体で詠んでいるという感じだろうか。作者自身の内的世界と外的世界の浸透圧の拮抗が崩されてゆく、そのあわいに濃密にして流動的な〈何か〉を垣間見たような気がした。その〈何か〉を、僕はまだことばにできないでいる。
読者である自身の言語感覚や詩的平衡感覚では容易にはかることのできない、そんな稀有な歌集だった。
そのおそるべき『ヘクタール』の著者、大森静佳さんにも、何度かお会いしたことがある。というより、歌会や読書会の場でときたま顔を合わせる、と言った方が正確だろうか。
熱く歌論を語り合ったり、特段何かプライベートな話をするというわけではなく、もちろん歌人としての来歴や背景は全く異なっている。だから歌友、というニュアンスではないのだろう。しいて言えば、お互いに1989年生まれだから、同学年、だろうか。確かに、歌会の合間などに話を交わしていると、あたかもキャンパスで同級生と会話しているような、そんな錯覚を覚えてしまう。実際に、生身の大森静佳という人を知っている。その感覚は、不思議だ。
惹かれる歌を挙げればきりがなく、そのどれも作者の深淵を垣間見せるが、いずれも〈個〉や〈私〉の範疇をはるかに超えてゆくような射程の長さに圧倒される。決して歌の方からこちらへは近づいて来ない。一首、また一首とかろうじてことばを追うにつれて、異なる体感温度に皮膚が晒されてゆく。
魅せられまた慄きつつ、歌集『ヘクタール』の頁より目を上げる。その刹那、今しがた読んだ一首の残響に、不意にいつかの、直に耳にした大森静佳という人の肉声が重なった。
短歌をはじめて7年。魅力的な歌人や歌集との邂逅、そのさなかに今も僕は、この小さな世界の距離感をはかれずにいる。『ヘクタール』の著者、大森静佳。彼女もまたそんな距離感を惑わせる歌人の一人だ。
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