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トム・クルーズの位相 —『デッドレコニング』所感

トム・クルーズ老ゆも不死なる七月の夜はさびしも火星のごとく

 
 〈夜〉や〈夢〉あるいは〈鏡〉など、抽象的な概念や何らかのモチーフを繰り返し詠むことはままあるのだけれど、特定の固有名詞を何度も歌にするというのは極めて稀であるように思う。その例外が、「トム・クルーズ」であって、このnoteでもこれまでに二度ほど彼の名を詠み込んだ作品を取り上げた(※)。
 エンターテインメントの王道をゆく、(もしかしたらそう呼ぶに相応しい最後の)ハリウッドきってのスター、トム・クルーズ。短歌という詩の世界とはおよそかけ離れた存在だが、そんな彼のパブリックイメージはときに一首の内に奇妙な抒情ポエジーを生み出してくれる、とそのように感じている。

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 さて、公開初日に満を持して観た『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』— トム・クルーズが自身のライフワークと位置付けるシリーズの最新作にして、初の二部作である。
 エンドクレジットの後、劇場を出てから抱いた率直な感想は… とても疲れた—。二部作の前編でありながら二時間半を超える上映時間に、その大半がアクションに次ぐアクション。これぞM:Iシリーズの真骨頂という展開なのだが、終盤へ近づくにつれて疲労感が蓄積されていき、集中力を維持するのがなかなか難しかった。前年公開の『トップガン マーヴェリック』からの期待値が高すぎたのか、それとも単に自身のコンディションの問題か、映画館からの帰路ではその理由を考えていた。

 トム・クルーズは、今日、リアルタイムでその作品が観られることを最も感謝すべき俳優の一人だ。どう見てもCGにしか見えないようなアクションを、スタントマンを使わずに自らの生身の肉体で演じ切ってしまう。本作『デッドレコニング』では、トム自身が〈俳優人生で最も危険 〉と語る《断崖絶壁からのバイクジャンプ》が本編公開前のCM映像でも話題となり、終盤必見のシーンとなっている。

 それを大前提として、一つの映画作品としての満足度は、同じくクリストファー・マッカリー監督による直近二作と比較しても、見劣りの感が否めないというのが正直なところ。
 クライマックスでの『スパイ大作戦』的な落とし前のつけ方が好評を博した『ローグ・ネイション』は、冒頭の拷問から脱出を図る場面や、ウィーン国立歌劇場でのオペラ公演中の暗殺計画阻止のシークエンスも実に魅力的だった。また、次作『フォールアウト』でも、高度8千メートルからの自由降下や、パリ市内を縦横無尽に駆け巡るバイクチェイスに、ロンドンでの追走劇が見どころだった。
 ちなみに、個人的に最も好きな作品は第4作の『ゴースト・プロトコル』だろうか。クレムリンへの侵入場面など、随所にケイパーものとしてのアンサンブルが魅力的だった。また、ジェレミー・レナー演じるブラントとの過去のいきさつも、終盤まで緊張感を保ちつつ、イーサン・ハントという人物の人となりを浮き彫りにする役割を果たしていたように思う。

 一方、最新作の『デッドレコニング』はどうだろうか。脚本のない状態で、トムとマッカリー監督が撮りたいアクションを先に撮り、辻褄の合うように後から物語を繋いだという本作。文字通りアクションシーンのつるべ打ちなのだが、全体的に構図としては新鮮味に欠け、次第に印象が薄れていくように感じられた。

 良かったのは、冒頭のアブダビの場面。砂漠での銃撃戦も、空港での追跡劇も、いずれも映像美を堪能できる。〈走るトムがよく映える〉と監督が語るのは、撮影時まだ建設中だったアブダビ国際空港の新ターミナル。オープン前であったため、異例の使用許可のもとで自由な撮影が可能となったそうだ。
 対照的に、ローマとヴェネツィアのシーンはやや鈍重な印象だった。黄のフィアットでのカーチェイスシーンは総じて好評のようだが、個人的にはあまり新鮮味を感じなかった。編集のせいか、《手錠を繋がれた状態での片手運転》という見せ場が、いまひとつ映えなかったように思う。もちろん、CGではなく実際にトムがアクションを行っているというところに意味があるのだけれど。
 ヴェネツィアに移って、ドゥカーレ宮殿でのパーティーの場面では、思わず笑ってしまった。敵味方の主要メンバーが一同に会して、棒立ちのまま長尺な説明台詞が続くところは、妙にコミカルな味があった。ただ、その後の一対一、あるいは一対二の肉弾戦はやはり重たかった。なんだかジョン・ウィックを見せられているような感じだったと言うのは失礼だろうか(どちらに?)。

 空港の場面に続き、ヴェネツィアでも恒例のトムの疾走シーンが見られる。しかも、いつになく長い。このシリーズの最もアイコニックな場面だが、その表情にはどこか悲壮感が漂っていた。
 〈いったい何と戦っているのか〉 ―そんな疑問が浮かんできたが、それはイーサン自身の問いであると同時に、観客としての自分が感じているノイズでもあった。字幕では終止《それ》と訳されていた《Entity》という存在。暴走するAIというのはすごく現代的なテーマではあるけれど、今日のスパイ映画における〈敵〉の設定の難しさを感じさせた。

 物語自体は、ほとんどあってないようなもので、《鍵》というマクガフィンをひたすら奪い合うというもの。全体的にスラップスティック的なコメディ要素が多く、そこは好感を覚えた。ただ、スリの常習犯であるグレースという新人物をわざわざ登場させたのなら、(一応、最後にオチをつけてはいるが)アナログなすり替えの描写をもう少し上手く展開に絡めてほしかったように思う。
 キャラクターに関しては、眼帯のイルサ・ファウストや暗殺者パリスを演じたポム・クレメンテエィフが魅力的な一方で、同じようなタイプの女性キャラが渋滞気味だった。登場人物が多いところはこのシリーズならではなのだが、設定上の物語が複雑ゆえに、中盤以降なかなか展開にのめり込めない一因でもあったように思う。

 さて、そうこうして訪れる見せ場の《断崖絶壁からのバイクジャンプ》は圧巻だった。何度もCM映像で目にしているとは言え、パラシュートが開いた瞬間の顔の筋肉の動きなどは、CGでは成し得ない(きっと映さない)ような臨場感があって、白眉のシーンだった。
 この《バイクジャンプ》やそれに続く列車アクションは、メイキング映像が公開されているが、正直、映画本編よりも断然こちらの方が見応えがある。スカイダイビングやモトクロス、走る列車の上部での格闘に臨むトムの姿を、ひたすら劇場で観ていたいと感じた。

 
 と、諸々の不満も少なくはないのだが、結局のところ、銀幕にトム・クルーズの姿が観られることに、我々はただひたすら感謝しなければならない。CGやそれこそAIの技術が飛躍的に進化を遂げる今日、生身の俳優によるアクションの価値は今後いっそう揺らいでいくのかもしれない。
 そのなかにあって、トム・クルーズは、まさに不世出のスターにして唯一無二の存在だ。バスター・キートンからジャン=ポール・ベルモンド、ジャッキー・チェン、そしてトム・クルーズへと受け継がれるアクション映画の系譜。現在61歳の彼は、今もその最先端で映画史を更新し続けている。
 そんなわけで、今から『PART 2』が待ち遠しいのだが、年齢的なところを考えると、いよいよ次作あたりが集大成となるのだろうか。(トム・クルーズ本人は、ハリソン・フォードを見習って80歳までシリーズを続けたいそうだが。)


 そう言えば、劇場を出たときに覚えた疲労感。作品の展開や尺の長さとは別に、トム・クルーズの表情から来るものがあったように思う。今作のトムは、これまでにないほどに苦悶の表情が目立っていた。姿の見えない強大な敵に対峙して、ときおり悲壮感すら漂うような眉間の皴や頬の筋肉の強張りが印象的だった。
 かつてトム・クルーズと言えば、あのどこか胡散臭く軽薄にも見えるとびきりのスマイルが代名詞だと思っていた。見ようによっては、どこかアンドロイドのような、人間離れした現実味に乏しい相貌は、荒唐無稽な大作スパイ映画にはそれはそれで合致していたのかもしれない。
 一転、本作では、超人的なスパイというよりも、一人の生身の人間という側面が強かったように思う。いつの間にか彼も60代となり、むしろ年相応の表情が新たな魅力として、強く印象に刻まれている。
 作品にとってそれが良いのかどうかは別として、結局のところ、観客が目の当たりにするのは、 イーサン・ハントではなく、どこまでもトム・クルーズの姿なのだろう。それが、他のスパイ映画とは一線を画す、このシリーズ最大の特質なのだと思う。


 今なお、映画の世界の最先端で、自らの肉体を駆使しながら映画史を更新し続けているトム・クルーズ。その彼が、今度はどんな表情を見せてくれるのか— 今から次作の公開を待ち望んでいる。
 


世紀末の記憶|五十子尚夏 (note.com)
 Tom Cruise, running|五十子尚夏 (note.com)

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