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幸せは表現活動の天敵なのかも!?

おはようございます!

最近はもっぱら胸肉のステーキにハマっていて、胸肉の下味としてつけるいろんな種類の塩を見つけるのがすごい楽しみで、新しい味を見つけるたびに買ってしまいそうになっているwataruです。


ただ最近はランニングや筋トレを行うのがまばらになっていたので、10月末までの勝負に向けて今日からしっかりと体を仕上げていこうと思います。


ということで本日は「幸せは表現活動の天敵なのかも!?」というテーマでお話しをしていこうと思います。


というのも、昨日のブログでは老後おじいちゃんブログのようななんともない日常の幸せについてのお話しをしたんですが、あんな内容のブログを書いていてふと”自分の表現欲が下がっているなあ”と思ったんですね。


というのも今まではこの社会に対して思うこととか、街中を歩いているカップルが気に食わないとか、あんなバカなことをしてる時間に俺は努力して自分の力でなんとかするんだとか、自分が他者と比べて満たされていない分そこを原動力にして表現活動の糧にしていたり、何かブログのネタにしていたり、努力の原料にしていたことが多かったんだなと個人的に思ったんです。


ただそんな感じで頑なに幸せから遠ざかっていた自分も日曜日の休日の幸せというものを数年ぶりに味わって、”あぁ日常の休日にはこんな幸せがあるのか、なんで俺はあの時にこの幸せを手にしている人のことを憎んでいたんだろう、、、”と昔敵にしていたような彼らの幸せを噛み締めることができるようになって、彼ら側の気持ちも理解できるようになってしまったので、その分牙を抜かれたように自分の表現欲が薄れていってしまっているんだろうなと思うんですね。


これは実際にオードリー若林さんの小説やエッセイを読んでいても思ったことなんですが、人はどんどん変わっていくし、いつまでも野心とか劣等感とかマイナス面を持ち続けているのってかなり難しいことなんだなと思っていて、というのも彼自身芸能界に入る前は人見知りとか気にしすぎという武器をずっと持ち続けていたんだが、それが芸能界に入っていろんな人とお仕事をしていく中で人と普通に喋れるようになって、初対面でも会話を続けることがそれなりにできるようになって、もう自分は人見知りじゃないなあと思うところまで来てしまった挙句、彼は今まで自分の人見知りとか気にしすぎが故に書くことができていたエッセイや小説を書くことができなくなって、ずっと書き続けていた連載を止めたり、もう書くこと自体を止めてしまうようなそんな場面を見たことがあるんですね。


というような感じで、仕事や恋愛、日常とかのどこかで幸せを感じることがあったり、どこか満たされている自分がいるとそこから何かを表現しようという気持ちになりづらいんだなあということをすごい感じて、何かのアートを表現したい、いつまでも表現者でいたいと思うのであればどこか足りない部分を常に持っていないといけないし、どこかの何かに対しての不満とか負の要素とかそういったマイナス面は持ち続けなくちゃいけない部分なんだろうなと思いました。


ということで本日は「幸せは表現活動の天敵なのかも!?」というテーマでお話しをしてみました。

こうやって考えてみると表現者として人に叩かれるというのは全然いいことで、むしろそういう反対をしている人やアンチの人を黙らせる結果を出してやろうという闘争心を掻き立てられるものになるし、そういう人が実際に不満や負の要素というような部分を補ってくれると思うとすごく大事な存在なんだろうなと思いました。

ではまた!



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