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タルコフスキー作品の創造的流れとCGについて

昨年末から海外のボクシング目当てでWOWOWに再加入したが、民放のテレビがあまりにつまらないので、ついこちらを点けている。流れているのは大体アメリカの映画で、CG満載の派手なSFやアクションが主体である。
 
最初は面白がって観ていたが、ずっとそんな作品ばかりを観ているとCGも食傷気味になってくる。いくらよく出来ていても、やはりCGはCGであり、作り物なのだ。つまり、デジタルだなぁ、と思ってしまう。生きた流れのようなものがないし、意外性がない――つまり、リアリティがない。
 
CGは技術の一つとしては素晴らしいのかもしれないが、「リアル」を表現する手段として使ってしまうと、袋小路に入ってしまうような気がする。あるいは、人間が本来持っている、自然の生理的リズムのようなものをゆがめてしまうことになるのかもしれない。その点、裸の男がすべての技術と精神力、気付きを重ね合い、交錯し合って殴り合うボクシングの何と美しく、自然なことか。ここには、虚飾と言うものがない。 
 
さて、CG映画に食傷気味になると、ついタルコフスキーなどを観たくなる。水、風、土、火の四大元素を散りばめながら、さらにそれらを超えた霊的流れのようなものが画面の中に充満しているあの濃密で、リアルな世界を味わいたくなる。
 
ここには、派手なものは何もない。彼のSF映画である『惑星ソラリス』では古錆びた宇宙ステーションが出てくるが、そこにあるのは光線銃でもなければライトセーバーでも、巨大な怪獣でもなく、マッドサイエンティストや、異様な環境で精神がおかしくなった人々たちが救済を求める葛藤と信仰の世界――いわば、ドストエフスキーの世界である。
 
『ストーカー』に至っては、原作のSF的要素はほとんど削がれ、原っぱで中年の男たちが「ゾーン」と呼ばれる廃墟を目指して、何やら哲学的なことを語り合いながら、真剣に歩いたり、休んだりしているだけの映画である。つまり、実際には何も起きていない。しかし、その画面の雄弁性は、どんなCGでも及ぶことができない情報量に支えられている。その圧倒的な情報量こそが、リアリティなのだ。
 
それではあの透明なゼリーのような、目に見えない、生きた、霊的と言っても過言でないような流れが生まれるほどの情報量は、どこからやって来るのか?
 
このファナティックな天才監督は、フィルムに情報を書き込むことによってではなく、自然という十全な素材から、情報を直接削除し、人間の精神を染み込ませ、構成し直すことでそれを成し遂げている。つまり、情報を圧縮している。
 
具体的には、花を抜き、葉っぱを一枚一枚抜いたり、枝を折ったりし、新たに樹木を植え直し、微妙な角度から風を吹かせ、一滴、一滴水の粒を距離を置いて垂らすなどして自然を組み替え、その中にある独特な調和的姿勢(演劇用語で言えばミザンセーヌ)を持った主人公たちを置くことで、自然の力と人間の精神性の濃密な融合のようなものを目指したように感じ取ることができる。より古典的な物言いをすれば、「ロシア的な大地の力と人々の信仰、熱狂的な精神性の融合」とでも言うべきものを。
 
タルコフスキーは、映画とは何か、その特殊性とはどういうものか、また自分の映画における独自な哲学・具体的な手法について、次のようにきわめて明晰に語る。
 
「映画における作家の作業の本質はいったいどこにあるのだろうか。その作業の本質を、時間の彫刻であると条件つきだが、定義することができるだろう。彫刻家が大理石の塊を取り上げ、未来の作品の輪郭を内部で感じながら、余分なものをすべて削り落としていくように、映画人は、まだ分割されていない巨大な生きた事実の集積を包括する《時間の塊》から、余計なものをすべて削り取り、捨て去ることで、未来の映画の要素となるはずのもの、イメージの構成体として現れてくるはずのものだけを残すのである。」(「刻印された時間」タルコフスキー『イメージフォーラム№80』p.170)
 
彼は、それを「刻印された時間」と呼ぶ。
 
映画という芸術は演劇や文学、音楽の折衷ではく、唯一「時間」を表現できるまったく独自な芸術である、と。
 
「このショットのなかを流れる時間の密度、強度、あるいは逆にその《希薄度》は、ショットのなかの時間の圧力と名づけることができます。ですから、モンタージュは、ショットのなかの時間の圧力を考慮して断片を結合する手段なのです。さまざまなショットと関係しているにもかかわらず、感覚の統一が、生みだされうるのは、フィルムのリズムを決める圧力、水力、電圧の統一があるためなのです。」(同p.67)
 
「リズムはでっちあげられたり、思弁的手段で構成されたりしません。映画のリズムは、映画監督に内在する本質的な生活感覚に応じて、彼の時間の探求に従って、有機的に生まれてくるはずなのです。例えば私には、ショットの中の時間は、独立して、自発的に流れるように思われるのです。そうだとすれば、理念は、ショットの中で、あわただしさも、騒音も、修辞的な支柱もなく座を占めるということになります。私にとって、ショットの中のリズム感は、……何といいましょうか……文学における正しい言葉に似ているのです。」(同p.68)
 
19世紀ロシア文学が到達したその境地に、アンドレイ・タルコフスキーは映画という新しいジャンルで迫り、『アンドレイ・ルブリョフ』によって到達し、その後、『鏡』『惑星ソラリス』『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』と続々と奇跡を起こしてみせた。自我を超えた領域のエネルギーを、自然の力と精神性の融合によって「可視化」してみせたのである。
 
ここまでそれを意識的に実験し、達成した映像作家は類例がないのではないだろうか。そこに表現されているのはフローベルに見られるような近代的自我の葛藤劇でもなければ、単なる自然の素晴らしさでもなく、それらを融合し、超えていく“霊的”とでも言えるような超自然の領域だったのである。
 
そう、超自然とは人間と自然(宇宙)の一体化によって生まれる。それはキリストの奇跡の秘密であると同時に、文学・芸術においては、アリョーシャ・カラマーゾフの祈りであり、モナリザの微笑の秘密である。タルコフスキーがイコン画家アンドレイ・ルブリョフをモチーフにし、ダヴィンチやバッハを礼賛し、自らの作品に繰り返し取り入れたのは、彼らもまたこの地上における神の具体的実現の道として、この超自然の領域に表現の扉を見つけた芸術家であることを知っていたからである。
 
「芸術は、人間が精神的に舞い上がるために、自らよりも高いところに行くために、我々が精神的意志と呼んでいるものを利用するためにあるのです。」(同p.87)
 
さて、CGという表現方法について話を戻してみよう。
 
CGは大量の自然に似せた情報を書き込むことで、リアリティに近づいてゆく。0+1+1+1・・・しかし、無限の情報を削り落とし、人間の精神と融合させ、再構成して超自然を実現する表現に辿り着けるかはわからない。おそらく、その方向は限界に突き当たるだろう。それは石ころを積み上げて、太陽を創造するようなものだ。
 
「デジタルの表現は無限の世界における一断片としての表現にすぎない」という謙虚さがあるならば、CG表現に開かれた未来はあるかもしれない。しかし、技術の進歩に目を奪われている段階においては、限定的な使い方がベストだと思う。つまり、「これ、CGですよ、すごいでしょ!」と『ジュラシック・パーク』のように割り切って使うか、アナ雪などの最初から「自然」と競争しないアニメ表現に向いていると思う。
 
つまり、今のところ映像表現においては誰もアートとして使いこなせていないし、観衆もそれを求めていないように見える。
 
タルコフスキーがCGを使ったら?
 
それはわからないが、おそらく素晴らしいものにはなるだろう。あるいは、むしろデジタル化の風潮を毛嫌いして一切の先端的と言われる技術から身を背け、水や火、風、ロシアの大地の中により深く入り込んでいってしまうような気がする。フェリーニあたりなら、やりたいほうだいやれるかもしれないが。
 
最高のCGの使い道があるとしたら、それは脳内のビジョンをそのまま映し出す機械だろう。それが夢であれ、想像であれ、細部まで脳で思い描いたものが、何の苦もなく映像化できたら、誰もが即席の映画監督になることができる。しかし、そこにリアリティが宿るかどうかは、また別である。
 
リアリティというのは脳内にあるのではなく、我々の頭蓋の外にある確かなエネルギーの流れのようなものかもしれないのだ。そう、タルコフスキーの『ストーカー』の世界に流れる、あの濃密な、懐かしい感触のように。
 
そのリアルな感触は、我々の思考の中にあるのではなく、私たちの頬を優しくなでて通り過ぎてゆく、気まぐれな風の中にこそ在るのである。
 
※参考文献:『月刊イメージフォーラム 1987年3月増刊№80 追悼・増補版 タルコフスキー、好き!』(ダゲレオ出版)
 
(メルマガMUGA第56号 2016年3月配信記事・改稿)

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