壺 (前編)

 薄汚れた換気口の通路を、音を立てないように進む。どちらが上か分からなくなりそうなくらい狭い通路だが、幸いネズミが何匹もいたからそんな心配をしなくて済んだ。排気口の穴から看守たちの声が聞こえるたび、心臓をギュッと掴まれたような気分になった。夕食で食べたオムライスが小さくて、もう空腹を感じる。
 看守たちの声が遠くなり、そこにあるのは自分の囚人服が擦れる音と呼吸の音だけだった。それから一分ほど進むと行き止まりに当たった。
「ここもダメか」
 思わず声に出た。その行き止まりにも、やはりシールがあった。四隅に『立』という字が書かれている。そして、鳥居の中央には雫と竜のようなイラストが描かれている。俺はこのようなシールを東棟で一度見かけたことがあった。

 ここは中国地方のどこかにある監獄らしく、古くなった棟を建て替えたものらしい。囚人として申し訳ないことに、食事も少ないことに目を瞑れば豪華なメニューが出ることもあり、不満ない生活を一年ほどしていた。棟が東西南北に分かれていて、東西が男子棟、南北が女子棟となっている。十字形のこれらの棟を結んだ中央棟が看守棟であり、午前午後で分かれて、看守がそこから入替制で囚人棟にやってくる。かなり伝統が守られてきた監獄らしく、中央部には潔癖と荘厳さを象徴する滝があり、ここの秩序を保っているらしい。
 ふと耳を澄ますと、自分でない何かの音がする。ネズミであることを願ったが、はっきりと息遣いが聞こえたから、どうやらネズミではなさそうだ。しかし、こんな排気口の通路に看守がいることも考えられない、一体何が俺に近づいてきているのか。シールを手に持って、息を潜める。

「あら、あなたも脱獄?」
現れたのは、薄くピンクがかった囚人服の女だった。
「よかったら、一緒にどう?」
 彼女に少しずつ下がってもらい、顔が見える少し開けたスペースに出た。看守の声と水の音が少し聞こえたから、位置的には中央棟の近くだと思う。
「俺は西棟所属の8016番、吉田だ」
「随分改まった挨拶ね、私は北棟所属の8033番、川村よ」
 大きな目に薄い唇、そして小さな顔は昔に長く追いかけていた、あるアイドルを思い出させた。よく顔を見ていると、なんだか懐かしい感じがする。綺麗な手と肌だったが、顔が少しやつれて見えるのは歳のせいだろうか。

「脱獄にタイムレースがあるわけでもないし、私と組まない?」
「人手なら多い方がいい。俺の仲間も喜ぶだろうし、その提案に賛成だ」
「決まりね。じゃあ早速、お互いの情報を共有しましょう」
 川村はそう言いながら、俺の右手を見た。そこには例のシールを握っていた・
「それ、私も持ってんのよ」

 女の鋭い目つきに、右手に汗が滲むのが分かった。好奇心からかスリルからか、胸の動悸が止まらない。心を大きく揺さぶられているのが分かった。俺はぎゅっと握りしめた右手を開き、川村の目の前にさっき手に入れたシールを差し出した。もう戻れなくなる覚悟を決めたのもその時だった。
 「何これ、うちの棟と違うわね」
川村はまじまじとそのシールを見つめ、字やイラストをなぞったり擦ってみたりしていた。
「私のも見てていいわよ」
 開きっぱなしだった俺の右手に一枚のシールをも乗せてくれた。俺たち二人の肌がわずかに触れた。羽衣のような川村の手の温度は暖かく、指先の感触は春の桜のような穏やかさを携えていた。
 川村から受け取ったそれは、確かに俺がさっき見つけたものとは違うデザインになっていた。雫に重なるように書かれた竜のイラストは同じだが、四隅の文字が違う。カタカナの『シ』のように見える。二人でしばらくそのシールを眺め、頭を捻らせていた。さっきまで聞こえていた看守の声も耳に入らず、お互いの呼吸や心臓の音が排気口の狭いトンネルの中で響いていた。もう一枚ずつシールを持っていることを思い出したのは二人同時だった。

「私、部屋にもう一枚シールあるわ」「俺、部屋にもう一枚シールあるぞ」

「やっぱり?そんな気がしたわ」
「東棟で一枚見つけた」
「どんなデザインだったか覚えてる?」
「中央に竜のイラストはあったようななかったような、でも四隅の字は全く覚えていないな」
「私もよ。はー、ちゃんと見ずにポッケに入れちゃったから」
「情報は多くあった方がいいだろうな」
「今日は夕食が洋食だったから金曜日ね」
「そうだな、土日は看守の目が厳しくなる。ここまでくるのは難しい」
「じゃあまた月曜日の入浴後、お互いに二枚のシールを持ってここに集合ね」
「分かった」

二人の大人、互い違いの方向へ四つん這いで進んで行くのがおかしかった。


「おい、どうだ、出れそうか」
 部屋に戻るなり、同部屋の井上がふくよかな自分のお腹を叩きながら聞いてきた。右手にはどこから手に入れたのか、ハンバーガーを持っている。言葉が合っているか分からないが、井上はこのムショの同期だ。

「新しい情報は手に入ったし、仲間も増えたけど、脱獄できる決定的な成果はまだ得られてないな」
「なんだよ。今日も勝手に抜け出したかと思えば成果なしか」
 ケータリングのホットカフェオレを啜りながら言った。湯気が井上のメガネを曇らせた。
「まあな」
「おいちょっと待て、仲間も増えたってのはどういうことだよ。お前脱獄のこと誰かにバラしたのか?俺を裏切ったのか」
「そうじゃない、たまたまだ」
「たまたま?どういうことだよ」
「いつも通り、排気口内を進んでいたら声かけられて」
「ほほう」
「そいつも脱獄を計画中らしくてな、お互いに利益があると思って手を組むことにしたんだ」
「で、結局得られた成果は?」
「お前は計画を立ててくれるだけだから知らないだろうけど、通路の奥にはシールが貼られていて、それは女子棟にもあるらしいんだ」
「あー、あの四隅に文字が書いてるやつか」
井上はカフェオレをずずと啜った。

「そう、月曜日にもう一度会って四枚のシールを揃えてみる」
「なるほどな、東西南北のシールを集めるってことか。それなら何かわかるかもな、ゲームみたいで俺もワクワクする」
「そっちこそ、俺がいない間大丈夫だったんだろうな」
俺もホットカフェオレを淹れながら尋ねた。

「あー、そういえばなんか叫び声みたいなのが聞こえたな」
「叫び声ならいつも聞こえるじゃないか。奥の死刑囚部屋の門の奥から」
「違うんだよ、もっとこう、大きいというかなんていうか」
「何が変だったんだ」
「叫び声っていうよりも、断末魔みたいな」
「この刑務所内で人殺しがあったってことか」
「その可能性もある」
「なんだよそれ!尚更早く脱獄する理由ができたじゃないか!」
「もう一個変だったことがあってな、その叫び声が聞こえた方角だ」
「方角?」
飲みやすい温度になったカフェオレを啜った。

「そうだ、お前の言ったように、死刑囚の部屋から聞こえる時もあるんだが、今回は反対側の中央棟の近くから聞こえた気がしてな」
「看守たちがいる棟で人殺しが起こった可能性があるってことか」
「一瞬周りの部屋も静かになったから、この棟中に聞こえていたのかもしれない。もしかしたら他の棟にも」
「なら、看守たちが見回りに来てもまずい、今日はもう寝るぞ」
「ああ、明日は土曜日。朝食は待ちに待った卵かけご飯と鮭だ」
「黙って寝ろ、脱獄の計画がパーになってもいいのか」

「・・・・・・」
「寝たか」
硬い枕に頭をなんとか沈める。

「おい、その仲間って女か」
「一応な」
「うほ、ラッキー」
「うるさい、早く寝るぞ」

翌朝、食堂では数名の囚人が声の聞こえ方について様々な憶測を話していた。

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