月に触れる

 朝起きて、インスタントコーヒーを淹れる。私の毎朝の習慣だ。愛おしい寝顔を数分間見つめる。いつも私を守ってくれる強くて温かい眼差しは瞼に隠され、子犬みたいな寝息が胸を締め付ける。
「ん」
 ゆっくりと開く彼の目に私は釘付けになった。
「おはよ」
「おはよう、春香」
 湯気が立つコーヒーの匂いに惹かれ、私と彼は暖かい布団から溶け出すようにして今日を始めた。

 大学生になって二回目のクリスマス、友達が恋人と一緒に過ごしているのを見てどうしても寂しくなった私はつい、高校時代の元彼に連絡してしまった。最初は私の家でケーキでも食べようという話だったと思う。しかし、気づけば彼は私の家に入り浸るようになり、そして今ではまた、名前が付いた関係になってしまった。
 今になって、なぜ一度別れたのか分からず、二人でよく笑った。
 一人で住んでいたこの狭い家が二人になってもっと狭くなったけれど、私の生活は一人の時よりも楽しくなった。玄関に並ぶ靴が二倍になった。ハンガーをいくつか買い足した。溢れてしまった私の昔の化粧品と保存の効くスーパーの安いお菓子を全部収納エリアに押し込んだ。
 ベッドが狭くなって、トイレの待ち時間ができて、お風呂に張ったお湯は溢れることが多くて、ダメな生活が増えたけれど、全てを愛してしまう。
 部屋の真ん中に設置したローテーブルに二人で並んで座り、飲みやすい温度になったホットコーヒーを啜る。この和やかな時間が人生を満たしてくれれば良いのにと思った。
 彼はこの時間に、さまざまな本音を漏らしてくれる。私をどれだけ好きかということ、実はちょっと直してほしいところ、提出した課題にダメ出しされて落ち込んだこと。いくつもの彼の本当が見えるのだ。
 「おじいちゃんがね、亡くなりそうなんだって」
 今日、彼の口から漏れた言葉は喜べないものだった。ただ、そうなんだって相槌を打つことしかできなかった。晴れているはずなのに、彼の瞳に映るベランダには雨が降っていた。
 「二年前に癌が発覚してね、俺もよくわからないんだけど、もうそろそろって日が近いんだって」
 コーヒーが冷めてしまいそうだったから、私は一気に胃に流し込んだ。彼がポツポツ溢していく言葉は本当に雨みたいだった。
 
 この日から半月後、彼の祖父は亡くなった。彼は実家に帰って、三日間私の家には帰ってこなかった。絵文字がたくさん付いたメールの返事だけはあったが、それが空元気であることはよく分かった。

 「ただいま」
「おかえり!よく頑張ったね、偉かったね」
 私は力一杯に彼を抱きしめた。
「春香、苦しいよ」
 力なくも、解れた彼の顔を見て私は数日ぶりに安心を手に入れた。
 
 次の日の朝、また和やかな時間がいつも通り訪れて、私はとてもホッとした。
「ねえ春香」
「どうしたの」
今日こそワクワクして彼の本当に耳を傾ける。
 「このインスタントコーヒー、飲むのやめようか」
「え」
困惑の色をした吐息のような声が漏れた。
 「癌ってつまり、体に悪いものが溜まってしまった結果だって、ネットで見たんだ」
「そうなんだ」
「おじいちゃんがそれに負けて死んじゃったのが悔しいし、春香にはあんな思いして欲しくないから、体に悪いものを摂らないようにしよう」
「そうだね」
 それから私たちの生活は不自然に、自然で埋められていった。

 朝飲んでいたインスタントコーヒーは悪いものを完全に無くすために五分間沸騰させた白湯になり、お風呂に入るときは浄水機能付きのシャワーヘッドを買って、それで湯船にお湯を溜めた。前に使っていた半分くらい残ったシャンプーを捨てて、石油が入っていないものを新しく買った。歯磨き粉もなんだか塩辛いものになった。塩は体に良いらしい。
 自分の髪の毛からいつものお花の匂いがしなくてなかなか寝付けなかったけれど、これでよく眠れるねと言った彼を見ると、目を閉じるしかなかった。
 私がスーパーで買うものが減って、彼がインターネットで買うものが増えた。冷蔵庫に加工食品が無くなって、見たことのない野菜や果物が増えた。フライパンに敷く油さえ彼が選んだものを使うことになっていた。少しずつ私の家から私のものがなくなって、共用と呼ばれるものが多くなった。
 無臭になった髪を乾かして、いつも通り顔に化粧水と乳液を塗る。
「春香、顔に何塗ってるの」
「何って、化粧水。肌が綺麗になるんだよ」
「春香は、こんなの塗らなくたって可愛いよ、市販の化粧水なんて体に悪い化学薬品でいっぱいなんだよ」
「そんなことないよ、他の化粧品よりも肌が綺麗になりやすいって有名なやつだよ」
「つまり、他のやつよりも毒が多いってことだ」
「ほら、体に悪いものなんて入ってないって」
私はそう言って彼にパッケージに書かれている成分表示を見せた。
「あー、こういうの嘘に決まってるでしょ、こんなの信じちゃダメだよ春香」
 私は何も言えなくなった。これ以上言い返すと、私が大好きな彼じゃなくなりそうだったから。私が大好きなのは、私のために優しくしてくれる彼だ。狼狽したような彼の目が私に口づけをした。
 次の日の朝、私はその化粧品をゴミ箱に入れた。ボトルはひっくり返って、中の液体が少し漏れ出していた。

 彼は私の持ち物も気にかけてくれるようになった。
 カサカサの手に塗るのは薬局のハンドクリームじゃなくてオリーブオイルを使うようになったし、ひび割れた唇にはメンソールの効いたリップクリームじゃなくて薄く蜂蜜を塗るようにした。だから私は化粧品を持たなくなった。家の収納エリアにあった、高校生の時から使っていたコスメも全部捨てた。ずっと食べていなかった安いお菓子も毒がいっぱいだから、全部捨てた。収納エリアは空っぽになった。
 テスト期間になって、彼と生活習慣が少しすれ違った。大学での補修や自習などで私が家を空けることが多くなった。徹夜でレポートや勉強を進めている時も、彼は寝ずに夜食を作ってくれた。夜は陰の気が溜まりやすいからと最も自然な、果物を剥いてくれた。すりおろした岩塩も用意してくれた。その支えもあってテスト期間を健康に終えた。
 ローテーブルしか見ていなかったテスト期間から解放され、久しぶりにまじまじと自分の家を眺めた。空っぽだったはずの収納エリアから何かが溢れている。扉の下のわずかな隙間から何かが。土だ。
「ねえ、これ何」
つい彼に尋ねていた。
「あー、はるかには秘密にしていたんだけどね。観葉植物を置くと良いって見たんだ」
「え、家の中に?」
「じゃないと意味ないよ、植物には陰の気を払う効果があるんだ」
扉を開けると、パラパラと土が溢れ出した。黒くて茶色くて気味が悪かった。ブルーシートの上に鉢に植えられた小さな植物が置かれていた。
 「人間にはもちろん、猫にも毒がない植物なんだって、これがあれば病院で処方されるような毒の塊でも解毒できるんだってさ」
 私の息と時間が止まった。ベランダから差す西日がその植物に当たっていた。日光を反射する光が、私には最も毒々しいものに見えた。
「ペペロミアビートルって言うんだ、可愛い名前でしょ」
「うん」
「この人が教えてくれたんだ」
 彼はスマホの画面をこちらに見せてきた。『真美@ヴィーガン生活四年目 自然が一番』というSNSのアカウントが表示されていた。そいつとの会話をいくつか見せられた。私を想ってのことだと受け止めようとした。できなかった。土のように心から悪いものが流れ出して、私は彼に別れを告げた。
 彼が出ていった家にはなんの匂いもなくて不安だった。手放したシャンプーや化粧品を思い出して泣いてしまった。涙は塩の味がした。

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