もうすぐ桜の匂い

『ごめんだけど、もう私とは会わないで』
 それ以降のメッセージを表示しないスマホの画面にしばらくイライラしてから、それが別れの知らせであったことに気がついた。制服とマフラーを脱ぐ暇もなく、家のベッドで項垂れた。
 でも、どうも諦めきれなくて、思い切って通話ボタンを押した。着信音が永遠に鳴り止まないかと思うくらい、彼女の声を待つ時間は長かった。
 プツっと着信音は途絶え、聞こえてきたのは車やバイクが走り去る音だけだった。
 「あのさ、」
「ごめんね、もう別れて」
 それを最後に、僕の両手は人肌の暖かさを忘れてしまった。彼女の声の奥で鳴る救急車のサイレンがうるさかった。

 確かに、最近の彼女は様子がおかしかった。メッセージの頻度は下がって学校でも僕と目を合わせなくなった。一緒に帰ることもなくなっていた。考え事が止まなくなって、ついにはため息しかつけなくなった。
「圭太、明日テストでしょ。今のうちにお風呂入っちゃわないと時間ないよ。行ける大学なくなったら困るんだから」
 こんな時でも日常は走り続けるらしい。僕はスマホを枕に投げ捨て、重い足取りでお風呂場へと向かった。記念日に渡すはずだった書きかけの手紙は、折りたたんで机の上に置いておいた。

 僕を包むお湯の温もりと入浴剤の優しい匂いが一層彼女を思い出させる。鼻がツンとした。湯船に少しずつ僕の涙が浸っていく。潤んだ瞳のせいで、動いていない足の方も、妙に水面が揺れて見えた。すると突然、そのゆらめきは大きく、激しい水飛沫になった。
「んもう、しょっぱいなぁ。せっかく住み心地良かったのに、私のお風呂が台無し」
 現れたのは、半透明な妖精の女だった。女といえども、声とふわふわと上に伸びた髪の毛と、うっすら見える体のラインで判断しているだけだが。
「ねえ、あんたなにお風呂なんかで泣いてんのよ」
どうしようもなく、ただ泣いていた僕は突然現れた相談相手に戸惑いながらも、ことの全てを話した。

 「あー、そんなことだったの。もう仕方ないじゃない。彼女の中で決まっていたことなんでしょ」
「でも、何も教えてくれなくて」
「あのね、女はそんな優しい生き物じゃないのよ。この私、ユト以外はね」「え?」
「何すっとぼけた顔してんのよ、こうやってあんたの泣き言に付き合ってあげてんでしょ」
「ひどい」
「あら、あんた顔真っ赤よ。のぼせそうだから今日は終わりね。まだ聞いて欲しいことがあれば、私の名前をお湯の中で呼んで」
 訳もわからず風呂場を追い出された。僕は立ちくらみを感じ、その場でふらついた。
「おっと、気をつけてよね」
右腕をユトが掴み、そのまま僕を部屋まで連れて行ってくれた。

 朝起きて、僕は少しパニックだった。勉強もせずに眠ってしまったことに、だ。
 僕は絶望しながらテストを受け、昨日とは違う落胆を抱えて家に帰ってきた。今日はすぐにマフラーも制服も脱ぐことができた。
 晩御飯のクリームシチューを二杯食べて、僕はすぐにお風呂に入った。言われた通り、お湯の中でユトを呼ぶ。彼女はあくびをしながら現れた。
 「ずいぶん早いわね、まだあの女のこと引きずってんの」
「だって、忘れられなくて」
「あんた、何かその人と繋がりのあるもの持ってたりしない?」
「あぁ、書きかけの手紙ならあるけど」
「バカね、そんなもの残してるから行けないのよ。持っておいで」
 僕は言われるがまま、机の上の手紙を持って風呂場に戻った。母は水仕事をしながらテレビを見るの夢中で僕を気にしなかった。
「これね」
 ユトはそう言って、手紙をぐちゃぐちゃに握りつぶした後、お湯をかけて使い終わったティッシュのようにシナシナにさせてしまった。
「これはもうゴミ、すぐに捨ててね」
「うん」
「これで明日からあんたは大丈夫よ。じゃ、もう会うことはないと思うけどまたね」

 彼女はそれだけ言って消えてしまった。水面のゆらめきは収まり、僕の目も潤んでいなかった。少し顔が熱くなっているのを感じて、僕はすぐにお風呂を出ようと立ち上がった。ふらついた僕の右腕を、ユトが掴んでいた。

「もう、あんたったら」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?