夏はホラー? 結局いつもホラー?

「#この夏やりたいこと」、というお題ならやはり、私の場合、「部屋に籠ってホラー映画三昧!」、ということになってしまうわけですが、とはいえ冬でも、春でも秋でも、ホラー映画、オールシーズンで観ています。

 それでも夏のホラーはそれなりに盛りあがるわけで、確か先一昨年の夏は“13日の金曜日シリーズ”(1980~。なお丸括弧内の四桁の半角数字は作品公開年なのですが、『ウィキペディア』などで調べがつく範囲で、国別の公開日が一番早いものを記しておきます。ただしこの13日の金曜日シリーズの場合は第一作、『13日の金曜日』の公開年を記しておきました。よく「『13日の金曜日』の殺戮者は誰?」という引っかけ問題になっている作品です)全作観捲くり! などということをやっていて、それが12月にズレ込んでしまったり、さらに12月には12月で『暗闇にベルが鳴る』(1974)などなど、やはり毎年観ている作品があったりなど、ホラー映画、なかなか「#この夏やりたいこと」というお題に収まってくれないところがあります。

 さらに今週ようやく暇が空いたとき観た映画は動画検索中にいろいろあって、『シンドバッド七回目の航海』(1958)になってしまいました。そうなるとどうしてもレイ・ハリーハウゼンのシンドバッド三部作は通して観たくなってしまいますよね?
 特に二作目、『シンドバッド黄金の航海』(1973)はキャロライン・マンロー関連でどうしても観たくなってしまっています。
 そしてそれも実は最近再視聴してやはりよかった『ドラキュラ '72』(1972)からの流れでして、ドラキュラもののヒロインはストーカーの原作以来大抵虎口を脱することになるわけですが、これもまた原作のルーシー以来、外見的にはヒロインより男性たちの眼を惹くサブヒロインの犠牲者が、惹句、または映画の場合ポスターなどで提示されているお約束のシーンを演じることになるわけです。マンロー演じるこの『ドラキュラ '72』のサブヒロイン=ローラ・ベロウズは作品内的にはちょっと可愛そうな役回りなのですが(と、書いておいたほうが、ホラー映画ファンにはかえって観ていただけることになるのではないでしょうか?)、『007/私を愛したスパイ』(1977)でボンドガールの一翼を担っている美女ですし、上記『シンドバッド黄金の航海』ではメインヒロインを演じているようです(シンドバッド三部作はそれぞれ二回以上観ているはずなのですが、最近どうももの忘れがひどく、今回また観た『シンドバッド七回目の航海』もほぼ初見のような感じでした)。

 と、ここでまた脱線してしまうのですが、『007/私を愛したスパイ』でメインのボンドガールというか、男性誌ならセンターフォールド的位置づけのXXXトリプルエックス=アニヤ・アマソワを演じていたバーバラ・バックもホラー映画にでていまして、しかもそれは『ドクター・モローの島』(1977)のヒットに便乗した『ドクター・モリスの島/フィッシュマン』(1979)という迷作というか、怪作というか、『ウィキペディア』の同作の項目には「アメリカでは、版権を買い付けたロジャー・コーマンがあまりの出来の悪さに、クリス・ウェイラスの造形で半魚人を新たに造り直し、ジョー・ダンテ監督により、キャメロン・ミッチェルとメル・ファーラーをフィーチャーしたシーンを追加撮影、再編集して“Screamers”のタイトルで公開された」などと書かれてしまっているような作品でした。
 しかし、そこまでいわれるほど悪くないよな? などと、私は思ってしまっています。
 たとえばその追加撮影されたシーンだと思われるのですが、冒頭、問題の島に上陸した一行の紅一点が同行者たちとはぐれてしまい、その同行者たちの一人の名を「ジェームズ! ジェームズ!」と叫んで探し回るといったシーンなど、秀逸でした。これってやっぱ、ワザとですよね?

 ところでついついつい紅一点などとポリティカルインコレクト(?)な言葉を使ってしまいましたが、さっき『吸血鬼ドラキュラ』(1897)のヒロイン=ミナ・ハーカーのことを書いていて思いだしたのですが、「カリフォルニア大学バークレー校の映画研究者キャロル・J・クローバー」が抽出し、提示した“ファイナル・ガール”という概念は、わざわざ研究者に提示してもらうようなことなのかな? といった風に感じてしまいました。そのファイナル・ガールという概念を通じ、「クローバーによると、スラッシャー映画では物語が進行してゆくとき、初めのうちカメラは殺戮者の視点を取ることが多い。被害者たちを暗がりからのぞき見る視線があり、やがて暴力シーンになると、殺戮者の視点から、叫び苦しむ被害者たちが描かれる。ところがファイナル・ガールが活躍し始めると視点は彼女の側に移動し、観客は彼女とともに苦境を切り抜け、殺戮者を倒すことに快哉を叫ぶのである」などといった分析がなされているようなのですが、そんなことならホラー映画のユーザーなら疾っくの疾うに知っていましたし、なかには──さて、誰のことでしょう?──「ファイナル・ガールが活躍し始め」て以降の展開を、物語的決着をつけるための消化戦のように感じてしまっているユーザーだって、いるのです。
 またホラー全般に亘るフェミニズム批評的分析には“ホモソーシャル”な○○といったいい回しが多用されるわけですが、そのようなこともフェミニズム批評の著作群を読むより13日の金曜日シリーズの“原典”に当たってもらったほうが、かえって明瞭になるのではないでしょうか? たとえばエッチなことをしたカップルがしばしば中盤までの犠牲者になるといった形で男性側から観た異性の排除がちゃんと提示されていますし、そうなると殺戮者は次世代を残すことができなくなるため、殺戮者当人が不死化し分裂するなどなど(“ジェイソン細胞”、などといった言葉もありましたね?)、単性でサスティナブルしていくようになります。さらにその際ジェイソンが、『13日の金曜日 PART3』登場の多分童貞の冴えない男性=シェリーからあのホッケーマスクを受け取っているといった点などに、注意しておくのもいいかもしれません。
 要するにホラー映画に対し有り勝ちな分析の多くが、分析対象のホラー映画のマーケティング戦略に先を越されてしまっているのではないか? などと感じてしまったのです。後知恵でしょうかね?

 ところで、現在私、「夏の連続投稿チャレンジ」にチャレンジしていますので、イマイチ時間がありません。引用はすべて『ウィキペディア』の当該項目からなのですが、可及的速やかにURLをつけるつもりでいます。
 それでは!


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