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16. モリト=アンナとは

 ジーロの前を素通りして席に着くと、ロハンは無言で仕事を再開した。
 いまは書類に目を通し、急ぐべき案件とそうでないものを、黙々と選別している。
 ちゃんと業務を行っているふうだが、恐らくは片手間だろう。
 ジーロの主は、眉目秀麗を地で行く人間で、常人とはかけ離れた特別製のオツムをしており、同時並行で複数の事案を扱える。いまがまさにそれで、表面上は書類を選別しつつ、深層の大部分では重大案件と向き合っているに違いない。
 普段なら、この離れ業を無表情にこなすロハンだが、今日はなにやら様子がおかしい。
 時折、青い双眸を、不安げに揺らしているし。
 かと思えば、美しいがきつめの印象がある目元を、不意に和らげる。
 口元に、ふっと笑みを湛える瞬間まで。
 まさか、思いだし笑いか。
 
「ロハン」
 思わず呼びかければ、主は顔を上げ、うっそりとした視線を側近に向けた。心ここにあらずである。
「……この宮に、ネズミはいるかな?」
 前置きなしにジーロにたずねる。暗に「全部報告させているのだろう?」と聞いている。
 知るかよ、とジーロは内心で毒づいて、わざとらしく息を吐いた。
「あの娘、一体なんなんだ?」
「なにって――」
 ロハンが曖昧な笑みを返す。長年の付き合いで、答えたくないのだと分かった。だが、一の側近としては、半端に捨て置くことはできない。さらに直截に切り込む。
「あの娘は、何者だ?」
 ロハンが睫毛を震わせ、俯いた。机に肘を突き、組んだ両手に額をつける。
「――すまない。答えられない。連中も知らないんだ」
 やはり、そうなのか。
 ロハンがジーロに話せないこと。
 この世界の〈思い出〉に関わる部分。

 年中ロハンと共に行動しているジーロだが、たまに休みが入ることがある。
 だが、降ってわいた休日だと喜ぶ気にはあんまりなれない。ジーロは知っているからだ。休みと称してジーロを遠ざけ、ロハンが独りでどこかへ行っていることを。
 ――どこへ行ってんの?
 命が惜しいので、ジーロはあえてたずねたことはない。補佐官どころか、護衛すら連れていけない、秘匿された場所だ。存在を知っているのは、国内に数名しかいないに違いない。
 モリト=アンナが、その場所で知り合った人間だったとしたら?
 最悪の予想に、ジーロは総毛立つ。嫌な感じに心拍数が上がるのを感じつつ、恐る恐るたずねた。
「それで? どうすんだ」
「どう、とは?」
「このままだと、死に分かれの未来しかねぇんだぞ」
「解っている。……道は一つしかない」
 ゆっくりとロハンが顔を上げる。
 冴え冴えと輝く青い双眸をジーロに向け、挑戦状を叩き付けるように言い放った。

「なんとしてでも、〈鏡の死〉を壊す」

 ロハンが本気になった!
 ジーロは快哉を叫びそうになった。

 折に触れ、密やかながらも、人々の口に上ってきたことがある。

 ――ヒジリ=ロハンの頭脳ならば、あるいは。
〈鏡の死〉解呪への糸口が見つけられるのでは。

 考えなしの四乃宮の連中だが、モリト=アンナを選んだことだけは評価しよう――
 ありがとう、と心の中で礼をいってから、ジーロはふと黙り込んでいるロハンに気付いた。
〈鏡の死〉を壊すと宣言したときの雄々しさは消え失せ、白茶けた顔でジーロを見つめている。
 ジーロは一転して不安になった。
「どう、した……?」
「ジーロ、いまおまえ、喜んだだろう? 僕が〈鏡の死〉を壊すといったこと」
「そりゃあそう……」
「連中に感謝しただろう? アンナを生贄にして、僕を本気にさせてくれてありがとうと」
 肯定の代わりに、ジーロが生唾を飲み込むと、
「……確かに、アンナでなければ僕は本気にならなかった」
 ロハンは両手で顔を覆い、呻くようにいった。
「彼女が〈鏡の死〉に捕まったのは、僕の所為だ……!」
 がっくりと項垂れ、慟哭を堪えるふうに肩を震わせる。
 しばらくして顔を上げたロハンは、目をギラギラさせながらいった。
「アンナを選んだのは、奴らじゃない。あの人だ」
「あの人?」
「だが、余裕がないのが気になる。いくらなんでも、〈鏡の死〉の謎を解き明かすのに二カ月の猶予というのは短すぎる」
 眉間に皺を寄せつつロハンが立ち上がり、そのまま執務室から出ていこうとする。
「おい、どこへ――」
 慌ててジーロはたずねたが、バタンと扉が閉まる音が返ってきただけだった。

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