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過去を語らない祖母

学生の頃、中国人留学生の友人を我が家に招待した。まずは母の実家に寄り、母方の祖母と、祖母と同居している叔母に会ってもらった。次に我が家。父方の祖母と母に会ってもらった。
後日、この友人は言った。「あなたには悪いけれど、あなたの家のおばあさん(父方の祖母)とお母さんは嫌い。でも、あなたの母方のおばあさんと叔母さんは素敵。2人とも自由な人たちだ」
鋭い。母方の祖母の話をしたい。

母方の祖母はおだやかな人である。怒られたことはない。料理も得意だったと思うが、おやき以外の祖母の手料理は思い出せない。祖母のおやきは最高に美味しかった。

長いこと母方の祖父母は二人で生活をしていた。祖父が亡くなると叔母一家が祖母と一緒に住むようになった。叔母夫婦は共働きだった。祖母は孫の面倒を見たり、庭の手入れをしたり、畑仕事をしたりしていた。祖母と叔母はお互いを尊重しあっていた。友人の言う通り、自由であり、助け合いつつもそれぞれの人生を楽しんでいた。

それが暗転したのは私が就職してからのことだ。祖母が脳溢血で倒れた。祖母は半身不随になり、寝たきりになってしまった。口から食事をとることもできなくなった。叔母は仕事と育児と介護を同時進行で行うことになった。在宅介護である。昼間は専属のヘルパーさんをお願いしたが、そうは言っても毎日お願いできるわけではない。祖母は不自由になった体を嘆いて我儘をいうこともあったらしい。叔母の負担は大変なものだっただろう。

祖母をなんとか元気づけたい。私が考えたの電話作戦だった。週に1度、祖母に電話をすることにした。いつかかってくるか分からない電話を待つのは大変だ。きっちり曜日と時間を決めた。私以外の親戚も電話作戦をしている人たちはいるようだった。脳溢血の後、祖母は話すのが難しくなった。ゆっくりとかみしめるようによろよろと話す。でも、話す内容はしっかりしていた。

祖母が病気になってから気づいたことがあった。祖母は昔話をしない。たまには思い出話もしたいのだが、祖母はそういう話を好まなかった。そもそも自分の話はしない。私達に聞いてくる。仕事のこと、プライベートのこと。また、他の親戚の話をする。この間、◯◯が電話をしてきた。こんなことを言っていたよ。今度こんなことをするらしいよ。◯◯が大会に出るんだって。◯◯は△△を習っているんだって。◯◯のところで赤ちゃんが生まれたよ。

時々は会いに行った。元気を出してもらおうと花束を持って。
専属のヘルパーさんが応対してくれる。祖母はベッドに寝ているが、ベッドのまわりじゅうがすごいことになっている。見舞いに来た人たちが持ってきた花束。送られてきた鉢植え、手紙、写真。祖母が楽しげに説明してくれる。祖母と話をしていると、疎遠になっていた親戚の動向が分かる。祖母を中心に、親戚が再び連絡をとるようになった。
叔母からすれば、これら贈り物の管理は負担だっただろう。特に花は生物だ。それでも、嬉しそうな祖母を見ると、また花束を持っていこうと思ってしまう。

寝たきりになってから祖母は絵手紙を始めた。かろうじて動く左手を使う。電話のおしゃべりではユーモアも忘れなかった。そうやって闘病生活を生き抜いて亡くなった。子どもに、孫に、ひ孫に、多くの贈り物をしてくれた。
仕事と子育てと介護に生きた叔母はどんなに大変だっただろう。叔母も生き抜いた人だった。祖母と叔母を支えてくださったヘルパーさんと訪問介護の方々には感謝しかない。
























































































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