電力のジレンマ

 東北地方の太平洋岸に位置する、かつて漁業で栄えた小さな町。過疎化が進むこの町には、今や原子力発電所が雇用の中心となっていた。発電所の建設によって、かつての寂れた商店街にも人々の活気が戻り、町全体が活性化し始めている。そんな状況の中で行われる市民集会では、原子力発電所の増設についての議論が白熱していた。


 会場は町の集会所。木造の古い建物で、歴史を感じさせるその場所に町民たちが集まっていた。前列には発電所の関係者や、町の振興を担当する役人たちが陣取り、その隣に科学者や電力会社の代表者たちが並ぶ。後方の席には町民たちが所狭しと座り込み、熱気が充満していた。主婦の神谷由美子もその一人であり、発言者たちの意見を聞きながら、心の中で自身の考えを整理しようとしていた。


「皆さん、忘れないでください。チェルノブイリの事故が起きたソ連は広大な国土を持っていますから、放射能の影響をある程度封じ込めることができたんです。しかし、我々日本は狭い国土に多くの人々が住んでいます。同じような事故が起きれば、取り返しのつかない事態になるでしょう」と、反対派の科学者が力強く発言した。彼の言葉に会場全体が息を飲む。やがて、一斉にざわめきが起こり、賛成と反対の声が入り乱れた。


「でも電気がなきゃこの町はどうなるんだ!」発言者の一人が叫ぶ。彼は町の商店街の店主で、最近導入したAIを使った在庫管理システムに依存していた。「電気がなくちゃ、店の運営もできない。工場も稼働できない。電気があってこその町なんだ!」


 由美子はそんな発言を聞きながら、胸中で揺れ動く思いを抑えきれなかった。自分の家でも、最近ではAI搭載の家電製品が増え、子供たちの学習にも電子機器が欠かせなくなっている。日常生活の中で電気の重要性を身をもって感じていた。だが、同時に、原子力発電所のリスクも理解していた。


 集会が続く中、電力会社の代表者が手を挙げ、マイクを握った。「確かに、原子力発電にはリスクがあります。しかし、現実問題として、電力需要は今後ますます増えることが予想されます。特にAIや自動運転など、これからの技術発展には膨大な電力が必要です。再生可能エネルギーだけでは、そのすべてを賄うことは困難です。だからこそ、原子力発電も必要な選択肢の一つなのです」


 その発言に再び会場が騒然となる。「それで、もし事故が起きたらどうするんだ?」という声が飛ぶ。「放射能で町が住めなくなったら、元も子もない!」。反発する町民の声に、電力会社の代表者は一瞬言葉を詰まらせるが、すぐに冷静さを取り戻し、こう続けた。「そのために、我々は安全対策に全力を尽くしています。最新の技術を導入し、二度と過去のような事故を起こさないよう努めているのです。しかし、リスクゼロというわけにはいきません。それでも、電力がなければ皆さんの生活が立ち行かないのも事実です」


 議論は堂々巡りを続け、結論は見えない。由美子は重苦しい気持ちで会場を見渡した。どの意見も一理ある。電力がなければ、彼女の家も、町の工場も、商店街も、すべてが立ち行かなくなるだろう。それは間違いない。けれども、原子力発電所のリスクを考えれば、慎重になるべきというのも当然だ。


 彼女の頭には、小さな町を支える現実と、未来への不安が交錯していた。もし、この町で事故が起きたら——。彼女は想像するのをやめたくなった。しかし同時に、現状を見つめることも避けられない。町の未来のために、子供たちのために、どうするべきか。自分に何ができるのか。


 その夜、集会が終わり、家に帰った由美子は、台所で夕飯の支度をしながら、ふと手を止めた。電気のスイッチを入れる前に一瞬、ためらったのだ。台所の薄暗い中で、彼女は思った。「この明かりを、私たちはどこまで維持できるのだろう……」と。


 彼女はスイッチを入れ、部屋に光が灯る。心の中に広がるのは、不安と矛盾。光があればこそ、家族の生活が成り立つ。しかし、その光を生み出すために、何を犠牲にすべきなのか。電力のジレンマを抱えながら、由美子は静かに、だが確かに、次の一歩を考え始めていた。それは、この町に生きる一人の主婦としての、自分なりの決意を形にするための一歩であった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?