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【哲学】少女革命ウテナ第9話『永遠があるという城』観ましたー。

はじめに

 prime videoで『少女革命ウテナ』第9話「永遠があるという城」鑑賞完了しましたー。今回は主に生徒会長・桐生冬芽と、副会長・西園寺莢一の関係性を描いた話でした。
 本筋の内容も良かったのですが、個人的には、両親を亡くし生きる気力を失くしたウテナが、実はその頃桐生らと出会っており、桐生に何かを言われて立ち上がるきっかけを掴んだことが判明した回で、その描写に非常に心惹かれました。

棺に入って動かないウテナ

 具体的には、父親と母親の遺体が納められた棺の隣の棺の中に閉じ籠ったウテナが「どうせ死んじゃうのに、どうしてみんな生きてるんだろう…永遠のものなんてあるわけないのにね私は棺から出ないの」と、悲観に暮れていましたが、翌日には棺から出てきていました。
 西園寺は桐生が何か「永遠のもの」をウテナに見せて、生きる気力を与えたと確信しますが、桐生はとぼけてその件についてそれ以上言及しませんでした。

白薔薇をつけているウテナ

 人が「永遠」を語る際は、多くの場合『命』『愛』『美』など時と共に色褪せ朽ちていくものを引き合いに出します。桐生がウテナに何を言った(あるいは見せた?)のかとても気になりますが、この辺についてあれこれ軽く書いて記録したいと思います。


感想

 人は、しばしば自分の意図とは別のことを話し始めることがあります。たとえば友人が苦しみ、嘆きながら自らの心情を語り、それを聞きつつ、ふと無意識に口にする言葉など、こちらが感じていた以上の衝撃を相手に与えることがあります。今回の桐生とウテナのやりとりも、おそらくそういった性質のものだったのだろうと推察されます。

 そして、そのやりとりから数年後に「あのとき言ってくれたことが今でも励みになっている」と礼を言われたりするのですが、こういう場合は例外なく、言った側は覚えていない、何を口走ったのか記憶がないので感謝されても実感が湧かないという現象が発生します。
 しかしその一方で、そのときに何を語ったのかもはっきりと認識し、相手の心が動いているのも目のあたりにしながら、自分の発言への実感がない、ということもあります。

 悲しみに耐えているとき、人生としか呼びようのない何ものかが、大きな不自由を強いてくるように感じるものです。その出来事と向き合うことを、耐えると呼ぶのでしょう。ゆえに、耐えるとは不自由を経験することだとも言えます。自由を与えられている者が、自由を生きているとは限りません。日頃は改めて考えることのない自由を、それが失われたときに一層深く認識します。
 耐えるとは、形を変えた自由であることの深化であると言えるでしょう。耐えている者は、我慢している素振りなど見せません。我慢とはまったく異なる境域に生きています

 何よりも、耐えるという言葉の奥には、信じるという営みが横たわっているようにも感じられます。何かに耐えているその人は、意識しないところで何かを信じています
 耐えるとは、人生が差し出すいくつかの逃れることのできない問いを、明確な答えのないまま、どこまでも愛そうとすることであり、その境地に永遠があるのかもしれません。

 人生のうちで人は、何度か言葉の器になります。そうしたとき、自分の口から語られる言葉でも人は、それを他者のそれとして聞くべきなのでしょう。

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