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誤解のないように言っておくと弊社はクソですよ

 現実がクソだってわかった上で、生きることを投げ出さずに、ちゃんと自分が働いて、自分の力で生きていこうと思っているから「仕事を辞めたいとは1mmも思っていない」という表現になっただけ。

 最近昔の自分をよく思い返す。今の私は散々えらそうなこと言ってるけど、かつての私は全然働きたくなんかなかったの。許されるんならずっと働かずに家で好きなことしていたかった。どうしてそんなんで平気だったんだろう。

 ついこの前の2月ごろのことですら、ずっと昔のことのように感じる。
 なんだかすごくおそろしいことに気づいてしまったんだけど、私の今までの立ち居振る舞いって、まさしく反抗期の子どもと同じだったのではないかと思う。
 自分を確立するための行動を社会人になってから、それも32にもなってからやるなんて、おまえ、おまえ、俺は信じられなくて倒れそうだよ。
 ダサくて情けなくて恥ずかしいけど、それも必要な通過点だったんだろうなと思う。

 何もしなくてもそのままの自分で他人から愛されたかった。自分が頑張ったことは認められたかったし褒めてほしかった。こんなのはまるっきり小さい子どもと変わらないではないか。
 承認欲求のかたまり。自分で自分を愛せないから、代わりに他者に愛してもらおうとする。メンヘラの大変厄介な精神構造。

 自他境界を確立し、他人から全肯定されることを諦め、世界はそんなにきれいじゃないということを知ってしまって、どうやって希望を持って生きていったらいいんだろうか。

 私の脳内はお花畑だった。みんないつのまにお花畑を卒業したんだろう。できるんならいつまでも子どもの世界で生きていたかった。

 何百回も言ってんだけど、両親がそろってて、経済的に大きな不自由もなく、ちゃんと愛されて育った人間は、それだけで人生ガチャ大当たりだからな。私が今悩んでいるようなことで、そもそもやつらは悩まないのだから。ちゃんと適齢で反抗期を迎え、そのほかのライフイベントも適齢で迎えることができる人種。自分自身が生きてることになんの疑問も抱かない。メンヘラなんてのは他人事でしかない。うらやましいことで。

 さて、「育ちのいい人」と正反対の位置に立っている我らメンヘラが他人に依存的にならずに自立して生きていくにはどうしたらいいのか。答え。諦めるということ。
 世の中には運良く、「理解ある彼クン」を手に入れることができた「メンヘラな自分ごと許容されている女」が存在している実例もあるようだが、そんな都合のいい存在が手に入らなかった我々は、じゃあどうしたらいいの?
 諦めるよりほかないんだよ。いいか?「他人に全肯定される」のは土台ムリな話なんだ。前述のメンヘラ女と理解ある彼クンの組み合わせだって、自他境界がグダグダのキチガイ同士だから成り立ってるんだよ(暴言)。
 諦めるっていうのは、パートナーを見つけることを諦めるんじゃなくて、自分以外の他者から、自分を全肯定されることを諦めろ、その事実を受け入れろってハナシだ。

 …と、私もまた私自身に言い聞かせてるわけです。

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