石舞台古墳を破壊した者 その2

 重い石棺を搬出したり表土を削り取ったりするには多くの労働力を要し,民衆にとって負担を強いる土木工事となるという観点から,別の仮説を考えてみます。「日本書紀」には,「中大兄皇子は邸宅を嶋大臣(蘇我馬子)の旧宅に接して建て,そこで中臣鎌足とともに蘇我入鹿殺害を計画した」とあります。蘇我宗家の滅亡後は馬子の旧宅は官有地とされ,以後代々,皇太子の東宮とされ,天武天皇の皇太子である草壁皇子もここに住みました。
 蘇我稲目の墓は見過ごされ(見瀬丸山古墳等諸説分かれるので定かでないが),石舞台古墳のみが破壊されたことからも,東宮の目の前にそびえ立つ巨大な石舞台古墳が,中大兄皇子にとってひときわ目障りな存在に映ったのではないでしょうか。655年に斉明天皇が即位し,後飛鳥岡本宮の造営が始まると,大規模な工事のため民衆を徴用したついでに,石舞台古墳の破壊に踏み切ったと考えることができます。

石舞台古墳へ向かう階段の120mほど右上方にある駐車場で,飛鳥時代の掘立柱建物や塀の跡が発掘された(島庄遺跡)

 古墳の解体工事は上円部(または上方部)のみ表土を取り除き,石棺を取り出すもので,石室は放置しました。最低限目障りでなくなる処置を施したという形で終え,石室がむきだしにされたのは後世のことでしょう。墳丘を覆っていた葺石は石舞台古墳から約1kmの距離にある酒船石遺跡,あるいは後飛鳥岡本宮の石畳として流用されたのではないでしょうか。
 改葬先としては,蘇我氏の墓域である磯長/科長(現在の太子町)が有力地として挙げられていますが,石舞台古墳から磯長までの距離は峠越えで18km近くあり,石棺の移送は困難でしょう。一方で遺体のみを移送するなら,石棺をわざわざ取り出す必要はないはずです。石棺ごと改葬したとしたら丸太でころがして移送できる,石舞台より標高の高くない近隣地域でしょう。将来何気ない平地や裾野で仏具を伴う石棺が発見され,馬子のものと判明する日がくるかもしれません。
 中臣鎌足の子で,「日本書紀」の編纂に中心的な役割を果たした藤原不比等が,石舞台古墳の破壊者であるという説もあります。中臣氏はかつて物部氏と組んで難敵蘇我氏に立ち向かった豪族で,不比等は藤原氏覇権の確立のため「日本書紀」に蘇我氏を貶める歴史改竄を施したとされます。しかし,「624年に蘇我馬子を桃原墓(石舞台)に葬る」と「日本書紀」に記した当人が,馬子の墳墓の破壊に及んだとしたら,本人にとっても周辺人物にとっても,"気持ちの上での違和感"が生じます。物理的に無い物にしようとしているのになぜ記録に残す? という違和感です。不比等に石舞台を破壊する目論見があれば,こうした記述自体を残さなかったのではないでしょうか。また,不比等は蘇我倉山田石川麻呂の兄弟である連子の娘・娼子を妻としており,むしろかつての有力豪族の血を権勢に利用しようとした様子もうかがえます。

 ここまでの登場人物の系図を試作してみましたが,あまりに入り組んでいるため途中で破綻しそうになりました。線で結んでいない血縁関係もありますが,参考までに掲載しておきます。

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