後醍醐天皇 塔尾陵
金剛峯寺をあとにし,日の入りまできわどかったものの吉野山まで足を延ばすことにしました。てっきり和歌山から東へ奈良に入るものと思っていましたが,ナビは来た道を引き返し紀ノ川沿いに東へ向かいました。しばらくすると吉野川が現れ,橋を渡り南進すると吉野山へ向かう上り道となります。この吉野川は先ほどまで見えていた紀ノ川と同一の河川で,奈良県内における別名でした。
のちに地図で確認したところ,高野山と吉野山を直に結ぶ自動車道というものはなく,別ルートを探すと南方の熊野まで奥深く大回りすることになります。雨の予報もあったためか観光客の姿はほぼ皆無で,しかも後醍醐天皇陵は吉野山の観光地からさらに奥まったところにありました。片側一車線の狭い道路の待避所に車を置き,崖状の石段を下った先に,如意輪寺がありました。
境内の右端にあった宮内庁の立て札を見ると,石段を上った先に陵墓が存在するようですが,何しろ人っ子一人いないので勝手に上っていいものかどうか迷います。しかしここで引き返す手はありません。
石段の奥のうっそうとした空間の先に,後醍醐天皇陵が現れました。他の天皇陵同様,柵だけはしっかり築造されていますが,建材の一つひとつ見ても明らかに手入れが行き届いていません。
足利尊氏の挙兵を受けて1336年に京都を去った後醍醐天皇は,吉野へ逃れて南朝を開いたものの,その3年後には病床に伏し,「身は仮へ南山の苔に埋まるとも 魂魄は常に北闕の天を望まん」と京都への慕情を辞世の句に詠み,崩御しました。後醍醐天皇を葬る円墳は,京都への思いから北向きに造営されたということです。これは頭を北向きに安置したということでしょうか,歴代の天皇陵はすべて南向きであるとのことです。
陵墓の印象はまさに「南山の苔」状態。そのうち捨てられ感から南北朝正統論争に関連があるのかと調べましたが,現在宮内庁の数える天皇の代数は南朝経由であり,南朝を正統とみなしていることになります。それだけに,あの寂れた様子には違和感を感じます。いろいろ調べてみましたが何も出ず,「立地が悪すぎて維持管理しにくい」というのがひとまずの推論です。結局如意輪寺を去るまで誰とも遭遇せず,仕方なしに400円の代金を箱に入れて猫のおみくじを買い,立ち去りました。
後醍醐天皇没後の南朝は後村上天皇へ引き継がれ,戦乱は継続しました。1347年には楠木正行(正成の子)の一派143人が四條畷の決戦へ向かうにあたり,後醍醐天皇陵に参拝後,如意輪寺に奉納して出陣し,戦死したとのことです。このときの辞世の句「かへらじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」は,寺宝として如意輪寺の宝物殿に保存されています。
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