ディスクロージャー・ムーブメント

 先日この欄で石棺の墓銘碑の発見を切に願い,さあ何年待つことになるやらと思った矢先,吉野ヶ里遺跡で大きな発見がありました。ファンファーレが鳴って人生の大団円を迎えているような興奮を覚え,ここまで生きてきてよかったと感慨にひたっています。まずは石棺の線刻,これを単なる魔よけの意匠と片付けてよいものか,文字としての解読の余地はないのかどうかの確認です。今は土の底に注目が集まり脇へ追いやられていますが,これほど大量の刻印が見つかったこと自体が世紀の発見です。霊力の強い人物の埋葬なので無数の封印をやみくもに刻んだのだと安易に考えず,まず墓銘碑として見てみるべきです。世界の全ての情報は0と1のたった二つの文字で記録できることを鑑みると,記号が単純だから文字ではないとは決めつけられません。構文になっていなかったとしても,人名は表記されている可能性があります。トレースが公表されたらじっくり見てみたいと思いますが,これまで単なる刻印と思われていた記号類,インダス文字など古代文字の解読を実現する切り札として…急速に進化するAIは期待大です。
 さらに先走った期待を述べると,石室内部に三角縁神獣鏡とはまた別の銅鏡があったら,さらに魏の文字を含む金印が見つかったら,日本の考古学史上最大の発見に天地がひっくり返る騒動となるでしょう。今までどちらかというと歴史マニアのトピックとみなされ,学術的に論じること自体がはばかられてきた邪馬台国が,一挙に歴史学の対象として扱われることになります。これらの期待が的外れで,たとえば帥升の墓であったとしても学術的興奮は収まりません。土は幾層にも分けて記録・採取を重ねながら掘り下げていくと思われ,日数はかかりますが,当面我々はたいへんな結果待ちの状態に置かれています。

★で示した日吉神社跡の境内地の南側の小高い丘の上が石棺発掘地点(電子地形図25000を加工)

 吉野ヶ里=邪馬台国であることが確定すると,邪馬台国の前史も一挙に明らかになります。つまり,吉野ヶ里における集落の成り立ちは,「紀元前5世紀を始原とする分散的なムラの成立」→「紀元前2世紀以降のムラ同士の抗争激化による環濠の造成」→「紀元1世紀以降の物見やぐらや祭殿,2つの内郭をふくむ巨大環濠集落への発展」,という過程が30年にわたる大規模な発掘調査ですでに明らかになっているからです。これまで,「魏志倭人伝」によると邪馬台国という国があったらしいという情報と,吉野ヶ里遺跡における集落発展の情報が別々に存在したのが,日本の国家成立の起源として一本の線につながります。残るミッシングリンクは邪馬台国から神武天皇へとつながる系譜,そして欠史八代の天皇,これらの実在を確認できれば,今まで4世紀以前は”うやむやだけど何だかすごく古い”というだけで誇られてきた古代日本の歴史が一挙に800年,紀元前5世紀まで明快な形でさかのぼります。高貴な人物の未盗掘の墓ということなので副葬品が何も出ないという可能性はほとんどないと思いますが,当面はこの期待感を存分に楽しみます。
 鼉龍文盾形銅鏡に続くインパクトのあるニュースですが,これほど立て続けに歴史的な発見が続いているのは偶然でしょうか。中東やヨーロッパ等を見ても歴史の扉をこじ開ける大発見の頻度が高まっているようです。それは風化の進行,環境アセスメントの浸透にともなう文化財保護と開発の両立,等が影響していると思われますが,なにより古い因習や禁忌のくびきから一定の距離を置く研究員や調査員の地道な努力の成果と言えます。ただし,私もむやみにあらゆる墓を鉱山採掘のように掘り進めと言っているわけではなく,発掘に当たっては古代の信仰を理解しようという意思をもったうえでの調査,開棺に当たっては丁寧なお祓いが必要であると考えます。大半の発掘調査は墓を見つけることを目的に進めていくものではなく,開発の途中でたまたま見つかった遺跡が失われてしまう前に,記録しておくために行われるものです。吉野ヶ里遺跡も工業団地の開発途中で発見され,国の特別史跡に指定されたことで埋め戻されず公園として整備されました。
 これまでは,「魏志倭人伝」はもはや読み取りようがないのだから,考古学上の発見を待つしかないと,棚上げ状態にされてきたわけですが,今まさに実在が証明される日を迎えようとしているかもしれません。しかも本格発掘から30年も経過,「首長の墓が見つからないのは如何とも…」と人々の関心が薄れかけていた吉野ヶ里遺跡がまさに本命であったとしたら驚きです。そもそも,掘り尽くされていたと思われていた一帯に”謎のエリア”なるものが存在していたこと自体が第一の謎ですが,この経緯については今後周辺の地形図をもとに探ってみたいと思います。


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