斉明天皇の狂心渠

 斉明天皇が655年に即位すると後飛鳥岡本宮の造営と周辺の整備が行われ,岡本宮の北東にある丘を石垣で囲みました(「日本書紀」に記されている「宮の東の山に石を累ねて垣とす」)。この工事に民衆を徴用したタイミングで,石舞台古墳の破壊が実行されたのではないかという推測は前回行いました。写真の湧水施設はこの丘の裾野につくられたものです。

酒船石遺跡の湧水施設 

 周囲は尾根で囲まれた閉鎖的な窪地で,中に降りるための石段が設けられています。ふと見ると手持ち無沙汰におばあさんが立っており,あたり一帯見回しても二人以外人影はありません。どうも観光ボランティアらしいのですがしばし躊躇,双方距離を詰めた末,案内しましょかと声をかけてもらえました。体育館の建設工事の最中に大規模な石造物が出土し,これはえらいことだということで建設は中止され発掘へ切り替えたということでした。写真の一連の石造物は地下水を地上へ導水する施設で,右側から湧いた水を中央の船形石槽で濾過し,左側の亀形石槽に溜める構造になっています。浴槽のように見えますがここで水浴したというわけではなく,水を用いた祭祀が行われたと考えられています。この祭祀は古墳文化の性格を引き継いたもので,仏教の影響はみられませんが,石の加工には朝鮮半島の技術の導入が,亀形石槽の意匠には中国文化の影響がうかがえます。
 斉明天皇の後,天武・持統天皇の時代もこの施設は使用され、平安時代まで約250年間にわたり大嘗祭などの祭祀が行われていました。なお石垣は天理市の石上山(現在の豊田山)で産出した砂岩を,運河を通じて運んだものと推測されます。運河を開く工事には延べ3万人余りが動員され,民衆からは「狂心渠」と非難されました。石材の運搬には200隻の舟が用いられたということなので,往復で運航できる大規模な運河だったことがうかがえます。こうした水上交通を用いれば,石舞台古墳から取り出した石棺を後飛鳥岡本宮よりさらに北方まで移送することが可能だったかもしれません。石垣の基礎には明日香産の花崗岩が用いられたことがわかっていますが,窪地の底に敷き詰められた石畳の産地についてはここまでのところ記述がみつかりません。ここに石舞台古墳の表面を覆っていた葺石を流用したと考えることはできないでしょうか。

 とても興味深いのは,天皇に対して「狂」という文字を用い「正気を失っている」と糾弾する反抗心を民衆が持っていたことと,それが「日本書紀」にも記録されていることです。天皇の悪政を民衆が非難した例としては武烈天皇,雄略天皇,斉明天皇,後醍醐天皇くらいしか思い当たりません。後醍醐天皇の場合は風刺のきいた落書が掲げられる程度でしたが,前三者は相当きつい言葉でなじられています。「日本書紀」の斉明天皇紀には「660年5月,国中の百姓が訳もなく武器を持って道を往来する」とあります。近代以降ならともかく,古代の民衆は「かしこくも帝におかせられましては…」などと最高敬語を並べ立ててかしずくだけの存在ではありませんでした。
 奇しくもこの50年数後,隋の煬帝が即位から10年余りで側近の率いる民衆の反乱により倒されています。両者には大運河の建設,海外遠征(白村江の戦い/高句麗遠征)という驚くほどの共通点があり,一歩間違えて暴発的事件を伴えば7世紀後半に朝廷が崩壊する危険もあったのではないでしょうか。なにしろ兵士も民衆から徴用されていたのですから,鉄製武器は朝廷が独占していたとしても,"国中(大和国全体)"の農民が反旗を翻すとすれば大変な勢力です。それが実現しなかったのはまず日本人の比較的おとなしい民族性("訳もなく"の語からも主張を言葉にしない様子がうかがえる),先掲の系図のように豪族と皇室が深い血縁でからみつく連合体として強固に確立していたこと(どの豪族がクーデタに成功したところで,別系統の天皇を立てて朝廷は続く),それに加え斉明天皇の背後で権謀術数に長けた中大兄皇子が采配を振るっていたことが要因と考えられます。

後飛鳥岡本宮,石舞台古墳,酒船石遺跡の位置関係


 地元でこうしたボランティアに参加でき,しかも遺跡保存に一役買っているとは何ともうらやましい老後です。自分は資料をめくりめくりこの文章を書いていますが,ボランティアは発掘の経緯から出土品の分析結果,導水の工学的な構造までそらんじて淀みなく説明し,質問にも答えなければならないのですから,これは訓練のたまものです。明日香村は飛鳥時代の史跡全体の世界遺産への登録をめざしているそうで,その熱意も感じられました。もちろん資格はたっぷり十分だと思うので陰ながら応援しています。


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