生贄とされた巫女


 では,ここまで探求してきた吉野ヶ里遺跡石棺文字の読み取りを大筋でまとめてみたいと思います。人物名に関しては,最も字面がイメージしやすく,周辺の記号をほどよく取りこぼさずまとまる文字を選んだ結果,史料に残る官吏等ではない未知の人物となりました。

a板:石棺が埋められたエリアを含む,田手川を中心とする集落,自然環境を表す地図が描かれています。
b板:上部の文字列は「蔑 彌煕 淑 甲午」。被葬者の氏名である「彌煕」は,素直に音読みすると「みき」となります。これをはさんで左右に配置される蔑と淑は,被葬者の身分を示します。冒頭の「蔑」は,頭に飾りを着けた巫女を戈で切り殺す様子が象形された文字です。巫女は雨乞いなどのために生贄とされることもありました。「淑」の字は神を祀る年少の巫女を表します。被葬者の没年は十干十二支で示されており,「甲午」は3世紀であれば214年,273年に当たります。
c板:ここに大三角形の星座図が描かれているとすれば,11月の西の空を表現していることになります。b板の被葬者名から斜めに立ち上っていく曲線は,魂が天に昇っていく様子を呪術的な文字列で表しているような雰囲気を感じます。そして,a・c板の随所に描かれている鳥の文様は,被葬者が巫女の集団の中で鳥占いを担当していたことを示しています。

"214年(もしくは273年)11月,鳥占いを受け持つ年若き巫女の彌煕,神に殉ず"
 石棺の内側の幅がわずか36cmという点は少女であるという事実,副葬品がないという点は生贄であるという事実を示していると思われます。214年とすれば,邪馬台国の社会に階級の区分が明確に現れてきた時期で,卑弥呼は50歳ほどに達していたでしょうか。273年とすれば,卑弥呼の死後,南側の狗奴国との紛争が激化したあとで,邪馬台国が存続していたかどうかすら定かでありません。卑弥呼の後継者である台与が生きていたとすると35歳のころですが,女王による神権政治の威光〜人身御供を伴うような〜はすでに失われていたのではないでしょうか。

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 ただし,今回は「魏志倭人伝」に残る人物名が読み取れたわけではなく,吉野ヶ里=邪馬台国と断じる証拠は出なかったことから,ある国の年若い巫女という推論にとどめておきます。ここで邪馬台国の位置論争に言及しますが,対馬国から奴国までの諸国の所在地,対馬から福岡市までの位置関係はほぼ異論がないところでしょう。問題は不弥国から投馬国,邪馬台国までの行程ですが,吉野ヶ里ほどの大規模な祭祀施設と環濠集落を伴う国が,「魏志倭人伝」に記録されていないはずがありません。
 吉野ヶ里が邪馬台国でないとすれば,史料中のどの国に当たるのか,という観点からの議論があまり見られないような気がします。邪馬台国の南縁を示す強固なガイドラインとして狗奴国が存在します。官である「狗古智卑狗」の読みから,これは現在の菊池市に当たる可能性が強く感じられますが,吉野ヶ里と菊池市の距離は国境紛争を行うにしては遠すぎます。とすれば吉野ヶ里が投馬国に当たり,さらに南方の女山神籠石あたりが邪馬台国の有力地と見ることもできます。いずれにしても私は九州説をとる,という立場は明確にしておきたいと思います。

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