Union Square
フランシス・フォード・コッポラが、"監督の意思が尊重される映画製作" を理想としてジョージ・ルーカスとともにサンフランシスコで設立したアメリカン・ゾイトロープが、1974年に製作した映画が「カンバセーション…盗聴…」です。「ハリウッド映画の大監督にはなりたくなかった。 "ゴッドファーザー"(1972年)の成功は偶然だった。"カンバセーション" のような映画をつくる人間になりたかった」と彼は振り返りますが、1974年のアカデミー賞では、「カンバセーション」は自らの「ゴッドファーザーPARTⅡ」(1974年)に敗れ、作品賞の受賞を逃します。
冒頭の3分間にわたるロングショットでうつし出される広場が、サンフランシスコのユニオンスクエアです。現在は中央の植え込みは撤去され、塔のみが当時の面影を残していました。土曜なのに人気が少ないような気がしましたが、あとで知ったところでは近隣で49ersの選手が少年に拳銃で撃たれ負傷する事件が起こったとのことで、思えば方々で警官が巡回していました。この事件は「アメフト選手相手にも臆することのない少年強盗」という点で社会に衝撃を与えていた模様です。
大勢の人々が行き交う公園を俯瞰する冒頭のシーンは、何をうつしたいのか判然としないままズームインし続けますが、まもなくそれは男女の会話を録音するショットガンマイクからの視点であることがわかります(この盗聴者から見た視点は、ラストで破壊されつくしたハリーの部屋を左右へパンする監視カメラ風の視点でも再現されます)。盗聴班を率いるハリーは、歩行者の声や楽器音、ノイズなどが入り交じる3方向の音源から会話を抽出する作業に取りかかります。冒頭に提示されるこのモチーフは、のちの中間部でハリーのキリスト教の信仰という形で変奏されているように思われます(父と子、聖霊を神の三分身とする "三位一体" の暗示)。
ハリーはカトリック的な罪の意識を持ち合わせ、過去に自分の仕事によって人が死んだことへの罪悪感に苦しんでいますが、それとは裏腹に、鮮やかにピッキングを行う様からも、その仕事は日常的に法を犯すことによって成り立っていることがわかります。良心の呵責はひた隠し、自分は録音するだけだ、依頼人が何を探っているのかは関係ないと言い張りますが、その主義に反してハリーはカップルの会話内容へしだいに深入りし、重い責任を感じ始めます。
信仰と同様にサックスの演奏シーンも、単なる人物像の味漬けにはとどまりません。盗聴という業務に最先端の機材を駆使するハリーは当然オーディオにもうるさく、サックスの練習にも品質の良いコンポーネントを使っていると考えられます。コッポラは「この映画はプライバシーがテーマだが、サウンドが核となる」と、多くのシーンを音響重視で書いたことを明かしています。撮影開始前すでに、コッポラの義弟が演奏する音楽のラフがそろっており、撮影現場ではそれが流され、俳優は場面の雰囲気を音楽から想像して演技のプランを自ら立てることができたということです。
マイナスワンという練習方法が登場する以前の1970年代においては、レコード音源をバックに演奏する個人練習はさかんに行われており、ハリーはトランペットにかぶせるような形でソロをとっています。まだ初心者であるとの自覚のあるハリーは、セッションに出かけるまでの勇気はないものの、しだいに自分の描きたいフレーズや感情を表現できるようになってきました。音楽と信仰はともに単なる主人公のキャラ付けではなく、盗聴業に対する取り組みに影響を与えているようです。音符を追うだけの段階から、自分がバンドに参加している感触を得る段階まで成長してきた音楽的感性が、単なる音声データの提供のみを求められる業務に対しては、調査対象への感情移入という形で作用を及ぼしていきます。それは、何度も何度も音源をきくことによる強迫観念の高まりと神経症の誘発、といった悪作用ではありません。音や文字、映像など素材をくり返し眺めても何も見えてこない、視点を変え、日柄を置いて悩み抜き、ふと思いついてつないだエフェクターを通じて真実が突如目の前に姿を現す…これは音響分析官にとって鳥肌の立つ瞬間であり、この仕事の醍醐味ではないでしょうか。まさに三位一体の神が目前に姿を現すかのような境地です。
物語はすべて主人公の視点から語られていきます。ハリーが知らない情報を観客が知ることはなく、ハリー以外の人物によって物語が転回することもありません。ところが主人公はなかなか自分のことを話そうとせず、話し始めたと思ったらすぐ押し黙ってしまいます。やがて観客は、主人公やカップルへの積極的な感情移入を開始します。あの二人は何者か、なぜ会話は盗聴されなければならなかったのか…会話の音源は以後「Revolution 9」の"No.9"のごとく音響効果の一部として熱に浮かされたように反復され、"知りたがってはいけない情報" に対する観客の想像をふくらませていきます。
巨大なスタジオをレンタルし、女を囲うくらいの財力がありながら移動には常にバスを使う(殺人現場から錯乱して逃げ出したときですらバスに乗る)、ハリーの生活ぶりにも興味をそそられます。自家用車を持たないのはおそらく、プライバシーに過敏なハリーにとって車というものは最も身元がばれやすい、装置を仕掛けられやすい大ぶりな道具だからでしょう。
愛人からちょっとした個人的なことをきかれただけでも不機嫌になる一方で盗聴相手のプライバシーに踏み込んでいる、好奇心のとりこになっているのは自分自身なのに助手のスタンが盗聴内容を詮索すると厳しく叱責する、こうした人格の破綻が彼の中でしだいに進行していきます。しかしそもそもがキナ臭い稼業。西海岸随一の腕前であれば遅かれ早かれ、盗聴相手の死という悲劇に遭遇することは不可避だったでしょう。人格破綻の背景には、霧の中の夢で語られる幼いころに死にたいと思った経験、人を死なせてしまった経験があり、ひょっとしたらアンに魅力を感じてしまったことがそのナイーブな引火性の下地に点火してしまったのかもしれません。
彼の技量に問題はありません。しかし納品の方法についてまずマーティンと衝突します。職人気質の技術者がこうした手続き面でクライアントと衝突するのはよくあることです。いったん納品を拒否し改めて録音のミックスをつくり直したハリーは "kill" という言葉を発見してしまいます。過去の悲劇が再現されることを確信したハリーは青ざめ、盗聴相手への「感情移入」は一挙に「直接介入」へとエスカレートすることとなりました。スタジオでモランに盗聴され侮辱を受けたショック、モデルと二人きりになって一夜を過ごした末にテープを奪われたショック、さらに首謀者〈取締役とマーティン〉、被盗聴者〈アンとマーク〉、盗聴者〈ハリー〉の立場が、首謀者〈マークとマーティン(アンはユニオンスクエアの時点ではまだ蚊帳の外)〉、被害者〈取締役〉、被盗聴者〈ハリー〉へとシャッフルされる終盤の大転回、これら三重に裏切られたショックは、理性が崩壊するに十分なダメージとなりました。
被盗聴者に身を落としたハリーは我を失い、信仰の拠り所であったマリア像までも乱暴に破壊してしまいます。しかし、盗聴器を探して部屋中を破壊したハリーも、サックスを解体することだけは思いもつかなかったようです。放心したハリーは静かにバラードを奏でます。その音色に感じ取れるのは虚無ではなく、「そうか俺は…無意識のうちに音楽だけは手元に残したのか」という救いです。技巧の多彩さから映画学校の教材とされることも多い本作には、この稿だけでは語り尽くせない魅力が詰まっています。ロケが行われたサンフランシスコの街を実際にめぐったことで、その味わいは一段と深みを増しました。
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