琵琶湖の最北端


 舞鶴から一般道を走り関ヶ原へ向かっている途中,琵琶湖が見えては消え,ああ琵琶湖にも寄ってみたかったなと思っていた矢先,目の前に琵琶湖岸がいきなり現れたので立ち寄りました。グーグルマップで調べてみると,まさにここが琵琶湖の北の端。こんな幸運があるものかと思い,しばらくぶらぶらしました。調べたところ,ここから南西側に突き出ている岬の西岸の狭い平地に,中世の惣・菅浦があったということです。琵琶湖の水運と漁業を基礎として発達した村落です。

右側の湾奥が琵琶湖北端
左上遠方の岬に菅浦があった

 湖と険しい山が形づくる菅浦の集落の景観は,国の重要文化的景観,日本遺産に選定されているとともに,氏神である須賀神社に伝わる鎌倉~江戸時代の村のおきて,年貢の催促状などを含む「菅浦文書」が国宝に指定されています。庶民が残した文書が美術工芸品並みの国宝に指定されているというのは,極めて異例です。
 ほかにも菅浦は,藤原仲麻呂の乱で皇位を追われた淳仁天皇(天武天皇の孫)の配流先であるという伝説があり,その慰霊のため明治天皇が建立した京都の白峯神宮には,保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇も合祀されているという,意外な史実が数珠つなぎのように見えてきました。また,北近江の戦国大名・浅井長政が織田信長と戦って敗れたとき,次男の万菊丸が匿われたのもここ菅浦だそうです。険しい地形によって周辺地域から隔絶された菅浦は,要人が身を隠すのには適した立地だったのでしょうか。また,淳仁天皇を代々祭神としてきた村人の気位が,中世の強固な自治組織を生んだように思えます。じっくり見る価値のある歴史遺産ですが,このときは先を急ぎ琵琶湖を後にしました。しかし関ヶ原古戦場は整備されすぎて全然つまらなかったので,このとき菅浦に立ち寄るべきでした。

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