神武以来巌石のごとく

 洞村の古老の聞き取り調査を行った菊池山哉氏は,「神武以来巌石のごとく1か所に,連綿として血脈を継続している村が,日本中どこにある」と驚きを隠しません。土地を収用された経緯について元洞村の住民は,「1869年に神武天皇陵が治定される際,私たちは賤民ですから何の話もありませんでした。神武田の中に9尺(約3m)ばかりの古塚があり,それが神武天皇陵となったのですが,付近のわずかばかりの田を私たちがつくっていたところを,"賤民が田をつくるとは何事だ"と言ってきれいに取り上げられてしまいました。それでもし"そこは違う,丸山宮址のところが御陵です"とでも言ったら,全村千人の者が放り出されて路頭に迷うのは火を見るより明らかでしたから,頭から固く口止めをされ,誰も絶対口外しませんでした。その後幾度かの拡張工事があり,とうとう私たちも全部移転ということになりました」と語っています。

橿原神宮と畝傍山

 洞村の所有地だったミサンザイを取り上げられてしまったことを苦い教訓とし,真の神武天皇陵の所在を主張すれば居住地を一切奪われるものと恐れ,村民は固く口を閉ざしたのでした。しかし,神武天皇陵だけでなく橿原神宮を含めた地域一帯の整備計画が立ち上がり,洞村以外の周辺集落の立ち退きも進められた結果,洞村も1920年には移転を余儀なくされました。
 強引かつ滑稽にも見える役所仕事と,真の御陵の所在を知る人々が闘争することなく退去した背景がよく読み取れます。明治初期,皇室の聖域として伊勢神宮,京都御苑,熱田神宮,そして橿原神宮の神苑の整備が進められる大きな流れのなかで,洞村のみならず畝傍山周辺の四条,久米などの一般村も一掃されたことから,神武天皇陵がミサンザイ,丸山のどちらに治定されようとも,洞村が移転を強いられた結末に変わりはなかったでしょう。ただし洞村の住民にとっての無念は天皇制による被差別部落の放逐という点よりも,墓守としての来歴を放棄させられた点にあったはずです。
 1918年の高市郡長からの報告に,「特に神武天皇陵を眼下に見下ろす位置にあり,恐れ多いことをその理由として」接収に至るとあります。同じ高市郡の長が,1400年前には天武天皇に神武天皇陵への献納を進言していたのですから,何と言えばいいでしょう…歴史が有機体のように連綿と動いているといいますか,洞村の元住民のインタビューを見ても,神武天皇とその墓守の歴史は決して虚構に虚構を積み重ねたフィクションなどではない,という実感を受けます。


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