空っぽの朱塗り石棺

 日吉神社跡の石棺の土砂除去が完了しました。可能性としては魏の金印や銅鏡が出土すれば世紀の発見でしたが,”何も出土しない”というのはそれに次ぐサプライズです。懸念としては腕輪や土器など判断に困る普通の副葬品が出土することであり,空っぽというケースは期待感の大きさもあってほとんど想定外。また一つ大きな謎が生じる結果となりました。石棺に刻まれた大仰な刻印と内部の状況はアンバランスに見えますがどうでしょうか。火葬していない人体が衣類を含めてあれほど完全にさらさらと土と化すのかと驚きました。同じように侵入土で満たされた朱塗り石棺は北九州市でも出土していますが,こちらは土器が納められていました。吉野ヶ里では,紀元前1世紀までの歴代の首長の墓とされる北墳丘墓で,ガラスの管玉や銅剣が納められた14基の甕棺が出土しており,首長クラスの埋葬であれば身分に応じた副葬品があるのが自然です。何より卑弥呼であれば通常の巫女にあらず,”倭王”です。盗掘にあっていないという報道は,重い蓋がかぶせられていたという点からの判断でしょうか。戦国時代の武将に掘り当てられ内部の副葬品のみ持ち去られたとすれば...いややはりわざわざ蓋を閉め直すとは考えにくく,石材も持ち去るでしょう。このあたりの可能性については次回以降考えを進めるとして,とりあえず日吉神社移転の経緯からまとめたいと思います。

吉野ヶ里歴史公園の標高図(★が発掘地点,地理院地図より作成)

 今回の発掘地点の通称「謎のエリア」の意味自体が自分にとっては謎でしたが,これは単に,日吉神社が立地するため調査の手が及んでいなかったということを表します。石棺の発見場所は日吉神社境内の南側の小高い丘の上,これは北側の甕棺墓列から南方向へのびる丘陵の先端部に当たります。ストリートビューで見ることのできる境内に茂る樹木は,調査前に伐採されたとのことです。歴史公園内の飛び地(公園区域外)だった日吉神社がなぜ移転することになったのでしょう。宮司側の都合で移転したのか? 発掘のために長年移転をお願いし続けた結果か? これは意外にも氏子さんからの要望でした。日吉神社は公園周辺の吉野ヶ里地区・辛上地区の住民が氏子として,長年維持してきましたが,高齢化の影響もあり,公園に囲まれた立地では管理が大変という要望が上がり(公園に入場料があるということは柵があり,遠いゲートから入らなければならないということでしょう),協議のすえ佐賀県が土地を買い取ったとのことです。佐賀県による用地の公有化は2022年2月に完了,同年から10年ぶりの発掘調査が始まり,神社は東に150mの公園外へ移転しました。
 古墳時代に築かれた墳墓が,いつの間にか古墳であることすら忘れ去られて祠が置かれるという例は,各地に見られます。日吉神社跡地ではまず戦国時代に日吉城が建てられ,その東の北墳丘墓の上には砦が築かれていました。神社が創建されたのはのちの江戸時代で,大正時代に火災にあった後再建されたということです。神社や戦国時代の砦は古墳の墳丘につくられやすい,ということを頭に入れておきたいと思います。とはいえ,地形が古墳っぽいというだけの理由で各地の神社に移転を求めるわけにはいきません。周囲が国の特別史跡に指定され,年月をかけて参詣に不都合が生じて移転に至った日吉神社は稀なケースといえるので,残り4割の未発掘エリアからは何とかめざましい成果を期待したいものです。


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