3枚の石板に共通する記号

 a板の田手川と思われる線を境として,西側に吉野ヶ里が位置するとすれば,どの刻印がどの施設に該当するでしょう。歴史公園の案内図と照合したところ,環濠で囲まれた北内郭と南内郭がいずれもⅡで表されていると思われます(下図)。そして当の石棺が納められた日吉神社跡の位置はⅢに当たります。ちなみに,同様の刻印が発見されたとされる瀬ノ尾遺跡の位置は黄アミで示したあたりでしょうか。

 前回の遺跡分布図を見ると,田手川の東側の遺跡群のうち5か所を除いて弥生時代の遺構が存在しているので,瀬ノ尾以外の記号に何らかの分布を意味づける余地は残されています。
 ここで,かつて瀬ノ尾遺跡で発見されたという絵画土器について,佐賀県HPより引用します。「絵画土器は瀬ノ尾遺跡の南部,古墳時代前期の竪穴住居跡から出土した。土器は壺の頸部から胴部にかけての破片であり,うち2片にまたがって人物画が描かれる。この人物は羽飾りを頭に付け,嘴とみられる突起を付けた仮面を装着しており,左手には,上部,中央,下部を鋸歯文帯で飾る盾をもつ。右手は欠けているが,戈を始めとする武器を握っていたとみられる。このような,武器・武具をもち頭に飾りをつける司祭者を表した絵画は,近畿,中国,九州地域の弥生時代後期の遺跡から数多く見つかっており,西日本各地で共通の祭式が営まれたことを示す。この絵画土器は共伴した土器の特徴から古墳時代前期に位置づけられるため,弥生時代的な習俗が古墳時代まで継承されていることを推測させる」。トレースは見つからなかったのですが,この羽飾りと嘴は鳥の仮装である可能性が高いと思われます。なお瀬ノ尾の南側の鳥ノ隈遺跡(0093),吉田九本柳遺跡(0095)等の出土品に関する具体的な記述は,web上ではなかなかみつかりません。
 この図面内でかろうじて解釈できることは,「吉野ヶ里遺跡の範囲内においては,Ⅱの記号は身分の高い指導者が住んでいた区画を示す」という点です。
 赤線でなぞった記号はa板に存在するが,b・c板に認められない記号です。Ⅱもc板にかろうじて類似した箇所が1か所見受けられますが,ほぼa板特有といっていいかもしれません。特に 〔 の記号は意図・意味をもって刻まれた印象を受ける形状で,全体を通じてもこの1か所しか存在しません。ちなみにc板に頻出する鳥の意匠がa板にも1か所みられます(青線)。
 再びb板へ戻り,人名や暦名から離れて何らかの漢字の面影がみられないかという視点から観察してみます。下図の黄線の箇所に「れっか」の部首らしき印象を受け,該当する漢字を探したところ,「煕」の字が浮かんできました。煕には「かがやく」という意味があります。

 a~c板にわたって広く分布する×は,のちの古墳時代の土器や埴輪においては,悪いものを封じ込める意味を込めて使われた記号であると見なされていますが,これを単なる封印と考えてよいものでしょうか。ここでは,この意味づけをいったん容れて石棺からすべての×または+を消してみました(計29か所)。

 13か所存在したc板は意味合いを失うがごとくすかすかとなりましたが,反面,鳥の意匠が強調されて浮かびあがりました。一方でa(4か所)・b板(12か所)は従来の意味合いを保っているように見えます。しかし,碑文や図面を書いている最中に,悪いものを封じ込めようとして封印を随所に刻み込むという衝動的な行動に果たしておよぶでしょうか。せっかく練ったデザインが台無しとなります。何より碑文は,後世の人々に故人の事績を明瞭に伝えることが目的であり,文字を暗号化したり記号に埋もれさせることなどありえません。c板においては主に×が天体の配置を示すという説を支持しつつ,次回は全体像をながめてみます。

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