天智天皇陵(御廟野古墳) の参道

 天智天皇は私の中で,歴代最強の存在感を放っています。大化の改新から難波宮への遷都,朝鮮半島での白村江の戦い,敗戦後の水城・山城の整備,大津宮への遷都から即位,庚午年籍の作成と,広大な範囲と年月にわたり名を残し,その間の歴史の変動が大きいため,とても乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子と同一人物とは思えません。これほどの事績を残しながら享年わずか46歳。濃密な人生です。しかもその陵墓は,天皇と何のゆかりもない京都山科にあります。

 立て札と外柵はどの陵墓も代わり映えしないので,参道を紹介します。入口の立て札から外柵に到るまで続く長い参道は,地図上で測ってみたところ365mもありました。しかし,府道側の始点が標高53m,終点が標高67mという低勾配なので,穏やかな道のりです。入口は,地下鉄も通る府道に面していますが,参道に入ると空気は一変し,手入れの行き届いた砂利道の上,木漏れ日,鳥のさえずり,風に木々がゆれる音につつまれ身が清められる思いです。
 ただし,一帯を樹木に覆われた陵墓の区域に入るのは参道を200m余り進んだ先で,府道から陵墓までの参道の両側は市街地となっています。地図を拡大すると"レオパレス山科御陵"などというすごい名前のマンションもあります。このあたりの住民はうらやましい限りです。なぜ陵墓の区域外に参道をこんなに長く延ばしたのでしょう。調べてみたところ,府道143号線の車道上を走っていた京津線の一部区間が地下鉄東西線の開通に合わせて1990年代に廃止され,その廃線跡地が沿線に不自然な空き地などの形で数多く痕跡を残し,その一つが天智天皇陵近辺の遊歩道として整備されたという説明を見つけました。鉄道には詳しくないので,「鉄道敷地跡を陵墓の参道につながる遊歩道に整備するとは何と賢明な再開発だろう」と感心し,ひとまず納得しました。しかし,今一度確認をとるため明治時代の地形図を見ると,すでにこの参道は府道から陵墓まで直結して存在していました。

(明治42年測図1:20000地形図「膳所」)

 なお京津線を頭の中で「きょうつせん」と読んでいましたが,正しくは「けいしんせん」でした。琵琶湖岸の浜大津から京都山科の御陵に到る路面電車で,滋賀県民の京都市への通勤の足となっているものと思われます。前述の遊歩道とは,下図に示した御陵駅から南へ折れる形で伸びる緑道を指していたようです。

 開発の経緯は逆で,明治時代にはすでに緩やかな丘陵を上る参道が現在の府道から陵墓まで通じていた→田などに利用されていた裾野がしだいに開発の波に飲み込まれていった→参道はつぶされることなく残った,という成り行きでした。「今昔マップ」で軌跡をたどると,高度経済成長に入った1960年代ごろから市街地がしだいに浸食していった様子が読み取れます。
 等高線のなだらかな広がりを見ると,いかにも古墳の築造に適した地形です。この一帯は滋賀県との県境にそびえる山々から流れ出る河川により扇状地が形成されているので,天智天皇陵の建つ丘陵も扇状地かもしれません。参道の端まで宮内庁が確保し続ければよかったのではないかと思いますが,京都市の都市整備局との折衝の末,都市化の荒波は食い止められず,標高50mの等高線あたりを妥協点として手を打ったのではないでしょうか。交渉の経緯を示す資料は見つからなかったので推測にとどまりますが,府道まで延びる参道がせめぎあいの末の,せめてもの抵抗を示しているように思えます。
 もう一つの疑問,なぜ縁のない山科に天智天皇は葬られたのか,については手がかりは得られず,今回はひとまず見送ります。古代の古墳のうち被葬者が確実に特定できる陵墓はこの御廟野古墳と,野口王墓(天武・持統合葬陵)のわずか2基ということです。飛鳥時代後期には陵墓の形式が八角墳へと変化しましたが,これら2基は密林に覆われ空撮でも形を見ることはできません。天智天皇の母である斉明天皇の陵墓と推測される牽牛子塚古墳は,近年整備され明確にオクタゴンの形状に復元されています。

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