舞鶴引揚桟橋

映画「ラーゲリより愛を込めて」が絶賛公開中ですが,この写真はシベリアからの引揚船が舞鶴港(京都府)に入港した桟橋(復元)から撮影したものです。向こうの製材所のあたりに実際の桟橋がありました。舞鶴は古くから軍事上の要衝で,かつて海軍の砲弾を収めた赤れんが倉庫などが残されています。現在は自衛隊の基地が置かれており,撮影時にはアメリカの軍艦も停泊していました。引揚者は写真の奥の方に建てられた舞鶴地方引揚援護局にいったん宿泊し,汽車の時刻表や切符を配布され,各自故郷への帰還の途に着きました。終戦後13年間にわたり延べ426隻の引揚船が入港し,66万人をこえる引揚者がシベリアなどからこの港から帰国しました。

引揚桟橋上から

抑留中の生活は過酷そのもので,入浴,というか沐浴は手桶一杯の冷たい水が支給されるだけ。それで全身をぬぐい歯を磨かなければなりません。まさにドストエフスキーの「死の家の記録」,ソルジェニーツィンの「収容所群島」に描かれた様子そのものです。熱帯地域で抑留されるのと比べるとどうでしょう。極寒では風土病や害虫の心配は少ないと思うかもしれませんが,おそらく極寒の抑留のほうが過酷です。暑くてつらいと思う感覚の大半は,かいた汗が衣服にまとわりつくとか臭うとかの二次的な幻ですが,寒さのつらさは実質的です。しかも収容所には大量の南京虫やシラミが湧いて睡眠を妨げました。

舞鶴引揚記念館のある丘の上には,引揚者が乗船したナホトカ港の方向を示す方針盤が,慰霊碑として設置されていました。800数十kmというのは遠方のように見えて,軍事的にはかなり近距離です。映画では主人公は9年目に病死して帰国はならなかったようですが,帰国の途についた抑留者の中にも引揚船の航海途中で死亡した人,舞鶴地方援護局内で死亡した人,帰郷したものの妻が家を去っていた人など,過酷な運命にさらされた人が多数いました。上記4例では,どの運命が一番過酷でしょう。私は3つめが最もいたたまれません。舞鶴引揚記念館には,抑留者が木の皮に記した俳句,死亡した仲間の死因や氏名などが展示されており,これが最も心を揺さぶりました。これらは彼らが決死の覚悟で靴の底などに隠してシベリアから持ち出したものです。

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