竹内街道から太子町へ

 南阪奈道路の竹内トンネル工事において,測量ミスで中心線位置が最大9cmずれ,コンクリートの厚さも不足したという記事を先般みかけました。このあたりは通過した覚えがあり,googleマップのタイムラインを調べたところ大和高田市から堺市へ移動するとき利用した国道166号が,この自動車道と交差するあたりがちょうど竹内峠でした。確か国道にはトンネルらしいトンネルはなかったと記憶しています。宿をとった大和高田市から堺市へ移動するためナビに任せて走った先で,思いがけず聖徳太子ゆかりの地が開け,推古天皇陵,聖徳太子の墓(叡福寺)など思い切り寄り道をしたのですが,この国道と周辺が日本初の官道・竹内街道であったことは知りませんでした。太子町は見所満載で素通りするには惜しすぎ,住環境もよさそうで移り住みたいくらいです。
 飛鳥地方(明日香村)に都を構えた推古天皇は,大陸からの使節を迎えるため難波の港へ到る「大道」を整備したと「日本書紀」に記されています。聖徳太子もこの峠を越えて飛鳥の都と四天王寺の間を往復したとされ,当然小野妹子も隋へ出向く際はこの街道を通ったはずです。渡来人もこの街道から飛鳥へ入ったと考えられ,「シルクロードの東端」という異名もうなずけます。その後も聖徳太子の墓のある太子町をめざす人や,伊勢参りへ向かう人でにぎわったものの,しだいに街道としての役割は薄れていきました。

叡福寺

 こうした峠道の歴史的由来を知って気分が高揚するのはなぜかというと,相対性理論と量子力学の統一を図る動きの中で「時間は流れない」「過去・現在・未来が等しいものとして存在する」「世界は物ではなく出来事の集まりである」という主張が有力になってきているからです。蘇我入鹿が暗殺されたまさにその現場に立って興奮するのは当然としても,馬に乗ってこの峠を越える聖徳太子の姿と,ナビに導かれて峠を通過した自分の姿も,ともに特筆すべき出来事ではないという点,同じ方向をめざす経路上という点で等しく存在すると感じられます。両者の間に過去と現在の区別はなく,秩序の乱雑ぐあいの差異しかありません。時間の矢という概念を取り去った状態でたとえば橘寺を訪れ,頭の中で「なぜ天皇にならなかったのですか?」などと尋ねてみることは,(声が聞こえるとかいうことでなく)歴史を考える上でとても有益です。昨今は物理学と形而上学の融合が進んでおり,古代の哲学者が実は物理法則の真理に迫っていたという論証がなされています。旧来の”現実派”を自称する人々は現実とは何かすら知るよしもなく,思考停止の状態で取り残されていくでしょう。今回はトンネルについて記すつもりでしたが,大きく話がそれてしまいました。

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