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痛快!「忍者戦隊カクレンジャー 第三部・中年奮闘編」は「人類は愚か」に飽きた愚かな俺達に刺さる作品。

どうも。
始発で寝過ごした経験数知れず、Kトレです。

今回はつい先日より東映特撮ファンクラブ(以下、TTFC)にて配信開始された「忍者戦隊カクレンジャー第三部・中年奮闘編」に関する所感です。

(作品のネタバレを多分に含みます。ご了承ください。)

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・帰ってきた!忍者でござる

人に隠れて悪を斬る!忍者戦隊カクレンジャー、見参!
成 敗 !

スーパー戦隊シリーズ第18作にあたる「忍者戦隊カクレンジャー」は、シリーズで初めて「忍者」「」をヒーローのモチーフとして前面に出す一方、アメリカ文化を取り入れたとされる妖怪のデザイン、アメコミのポップを思わせる独特のエフェクトなど、東映特撮の忍者らしい「自由さ」を纏った作品でもあった。
更にレッドではなく紅一点のホワイトを当主にした構成、第二部・青春激闘編と題し加速する戦いを真っ向から描いた後半のドラマ、そして完成度の塊である巨大ロボ=三神将と後年のシリーズにも大きな影響を与えた。
筆者も面白く観させて貰った作品である。

あれから30年。ニンジャレッド・サスケを演じた小川輝晃氏を筆頭にキャスト陣の熱意を通して完成したのがこの第三部だ。詳細な経緯は東映特撮Youtubeにアップされた「Road to 第三部」に詳しい。

そんな愛と情熱のかたまりと言うべき作品内容はというと、まず肝心のアクション面が素晴らしかった。
特撮アクションの第一人者の1人、坂本浩一監督の演出はとにかく絶好調であり、これまでに監督が手がけた作品同様とことんツボを抑えたモーション、武器使いは流石だった。カクレンジャーって割と販促アイテム手数の多い戦隊なのだが、それでもこうして満足させてくれるのはもう感謝しかない。
またカッコよさにとどまらない…後輩たる「ハリケンジャー」や「ニンニンジャー」に後れを取らぬカクレ流忍法のフリーダムさをも思い出す場面があったのが更に嬉しいポイントだった。
しかしもうそれぐらいは当たり前だ。坂本監督が初めて国内特撮のメガホンをとった「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説」からも15年経って、彼なら当然…そんな目の肥え方をしてるオタクは自分だけじゃないと思う。
今回筆者が惚れ込んだのは忍者アクションよりむしろ、ドラマの方だった

・新世代だだだっ

今回ドラマの主軸を握るのは、ニンジャホワイト/鶴姫とニンジャイエロー/セイカイ、そして新キャラクターの青年、ゴロウである。
30年後のカクレンジャーはそれぞれの暮らしを(これまた本編へのリスペクト溢れる形で)送っていたが、鶴姫は自身が開いた養護施設でゴロウの面倒を見ており、セイカイは成長したゴロウを養子として引き取っていた。だがそんな彼らにゴロウを妖怪として覚醒させようとする新しい妖怪の影が迫るのである…。
ゴロウを巡る展開は既視感のかたまりだ。記憶或いは力を失った首領を復活させようとさる敵というのは結構色んな作品で見られるし、ついでに紋章が成長して悪の血が目覚めるというのは明らかにカクレンジャーの前作「五星戦隊ダイレンジャー」のキバレンジャー/コウを想起させる。
だがそれをノイズにさせないのが本作を生んだキャスト陣の熱量だ。
5人の中で特に役者から離れていたはずの鶴姫=広瀬仁美氏とセイカイ=河合秀氏の熱演は、あの頃の鶴姫とセイカイ(「どすこーい!」がそのまんまなんですよ)を感じさせながらも、相応の年月を経た大人としての5人の姿、すなわち中年奮闘をより熱いものにしていた。
そしてゴロウを演じるのは人気バンドMr.s Green Appleのリーダー、大森元貴。カクレンジャーのファンだと言いつつもこの人、筆者のひとつ上でリアルタイム世代ではない。こういうズレに非常に煩いのがオタクだが、そんな赤味噌雑音を一掃するような存在感。自分が猿人人外である事に動揺する繊細な場面も、短いながら見事に演じていた。これがカクレンジャー愛のなせる業か?
やがて新時代妖怪ならぬ新時代忍者を率いるやもしれぬこの役柄は、大森氏の世代でなければ画にならなかったと思う。

しかしそれ以上に筆者が胸を打たれた部分があった。

・甦れ!封印の扉

今回カクレンジャーの前に立ちはだかった自称「新時代妖怪」は、デジタル化社会においてSNSなどを通して新たな怒りや憎しみを得て生まれた存在と定義されてる。
カクレンジャーが文字通り青春をかけた激闘の末封印した妖怪軍団は、復活ではなく新生したのだ。
おそらくその源流には、かつてカクレンジャーの最終回で示された「終わらない戦い」というテーマがある。
これはメインライターを務めた杉村升氏が東映特撮で度々伝えてきたテーマだ。
「特警ウインスペクター」「特救指令ソルブレイン」では、主人公が警察官である点から話を膨らませ、犯罪に終わりはない事を真っ向から描いた。
「恐竜戦隊ジュウレンジャー」では魔女バンドーラ一味を丸ごと封印という形で物語を完結させ、「ダイレンジャー」ではより直球に「無益な戦いは繰り返される」として、50年後に再発した善悪の戦いをみつめる主人公たちで物語が締め括られた。
そして「カクレンジャー」では、「妖怪は人間に怒りや憎しみがある限り滅ぼすことなど不可能」と妖怪大魔王に豪語させている。

この「正義が不滅ならば悪も不滅」という結末の根底には、「そんな簡単に正義が勝つほど世界は甘くないし、人間は賢くない」というメッセージがある。それは当時の世相や社会観を見れば間違っていないのだが、正直言って今どきのオタクはそういうのをやれ逆張りだの聞き飽きただの言って飽きてる人が(リアルタイム世代含めて)多い。それは今の「仮面ライダーガッチャード」なり「爆上戦隊ブンブンジャー」への"X"における好意的反応の数々を観てても明白だ。
故にこの年代の戦隊は近年になってあまり絶対的な評価をされる作品では無くなっている。

しかしである。
筆者はこの第三部が本来のターゲット層からそっぽを向かれかねない「終わらない戦い」を、辛気臭さを取っ払った上で見事に表現した事こそ、最高の評価点だと考えている。

30年という時の経過やTTFCという媒体の性質、そしてカクレンジャー自体の賑やかなイメージを鑑みれば、もっとアクションに振り切った作品にしても何も文句は無かった。だが坂本監督にしろ、脚本の下亜友美氏にしろ、キャスト陣にしろ、逃げの選択肢を取らなかったのだ。
それはこの妖怪と怒りや憎しみとの関係がカクレンジャーの真髄だとの思いがあったからだと感じた。
考えてみればそもそもカクレンジャーの最終回自体が、5人が倒せないこと即ち封印することと前向きに考え、今まで通りの旅に出るラストへと明るく昇華してみせた作品だった。

サスケ「封印の扉とは…わかったぞ!誰にでもある、心の扉だったんだ!」
サイゾウ「湧き上がる怒りや憎しみを、心の奥底にしまう扉、それが封印の扉だったのか!」

第53話(最終回)「封印!」より

作品がもつメッセージに向き合いながらも、それを決して枷にさせず、尚且つ素晴らしいバランス感覚を以て取り上げてくれた姿に、筆者熱くなるものがあった。

別に重い話が嫌いという訳ではない。
重さに縛られすぎて同窓会的な賑やかさが消えたり、主人公が報われない終わりを迎えるのは、10年以上の時を経た続編としてはさほど誠実じゃないかなという事だ。
だが完全にそれを取っ払ってしまうと、「スーパーヒーロー戦記」のラスボスじゃないが出来の良い二次創作止まりになってしまう。

なので「中年奮闘編」は(実際の期間はともかく)考えに考えて、最良のバランスでカクレンジャーを蘇らせてくれたとの思いを抑えられないのである。

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これは完全に余談だが、杉村氏が最後に手掛けた特撮である「超力戦隊オーレンジャー」の最終回では、最後まで生き延びたバラノイア帝国の王妃ヒステリアが愛に殉じ、オーレンジャーが機械にも愛の心が生まれた事を痛感する。
本作において、旧世代のネームド妖怪として唯一復活を果たした貴公子ジュニア(遠藤憲一氏)が見せた意外な行動と重なる部分があるかもしれない。


・愛の忍者たち

今回考えたことは以上だ。

「中年奮闘編」は多くの人の愛に溢れると同時に、続編を見る意味作る意味を見失いかけていた私たちにその愛を分けてくれるかのような、救いの作品だった気がするのだ。
ラストは何やら続きを匂わせるものであったが、その話はまた、いつの日か(最後の最後にようやく講釈師=神田伯山師のネタを出せた!)
今はいったん、観客として、愛すべき5人の忍者たちの活躍に夢見心地でついていたいのである…。
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ではでは。