ナンシー関への憧憬
最近ずっとメンタルも低調子だけど、とにかく毎日はやってくるから生活はする。もちろん仕事もする。けど出口が見えなくて、しんどい。要は、体の不調含めて、一か月で急に更年期障害に襲われている感じ(というか、まさにそうなのだが)
こういう時、いつもなら読める本が読めない。小説は作り物過ぎて入り込めず、エッセイは全部気に障る。哲学や文学の考える系の本や理系のブルーバックスも、普段はさっさと読むのに文字が頭に入らない。新しい本が読めない。
昔から好きな本も、読めない。いつもなら安心できる言葉も、好きで仕方なかった表現も、目と心を上滑りしてしまう。重症である。
そんな中、何故か、イラストレーター・おおたうにさんの(色彩と服飾への)パンチの効いた本と、ナンシー関さんの本だけが、今の私にするする入ってくる。自分でも謎である。
おおたうにさんは、好きだった雑誌の連載や挿絵で度々拝見してきたし、それこそ子供のころから知っていた。実は、私のコピックでの着彩や「好きを叫ぶ」ことへの嗜好の原点である。だから、見ているとほっとする。あの書き文字も好きだ。
今の私にとって、ナンシー関さんとは。1987年生まれの私にとっては、大人になってから、武田砂鉄さんやリリー・フランキーさんつながりで知った人である(一応記しておくが、別にお二方の思想や言動にまるっきり賛成というわけではなく、面白い本の乱読の中にお二方の著書ももちろんある、ということである)
中学生か高校生の時、ナンシーさんの訃報をニュースで見たことは覚えている。が、ナンシーさんのコラムや連載は大抵「おとなのおじさん」向けの雑誌や「テレビ大好きさん」向けの媒体だったし、その当時の私がその作品やコラムを直接目にすることはなかった。今、当時の作品を読み返しても、私が10年早く生まれていてもちょっと読まなかったかもしれない。10代・20代の頃の自分は、ロックバンド愛してる期で、みんなが好きなテレビや芸能スキャンダルに背を向けることをかっこいいと思っていた青臭い若者だったので。
さて、そんな若者も更年期に悩まされる中年となり、今ナンシーさんにハマっているのは何故か。消しゴムハンコ作品の素晴らしさもだが、コラムの切れ味含めて、その毒を自分が薬として飲めるようになったからだろう。
それは、その本質が、有名人の言動をこき下ろす・からかう・まして中傷することではなく、無責任に持ち上げたり流さたりする大衆そのものへの批判の目だから。ナンシーさんは、有名人を標的にしているように見せて、その標的のイメージやキャラクターを作り上げた張本人・「視聴者」と「メディアを作る側」に向けて、言葉を発していたのではないか。
今もテレビで活躍される方はなんとなく分かるが、私が知らない人や事件についてはいちいちネットで調べたりしながら読んでいる。世相や、当時の新聞記事まで。ああ、あの人、あの時そうだったのね。ああ、こういうことがあったのね。と。そうやって、時間の絶対的な距離があるからこそ、そう感じるのかもしれない。
結論から言えば、20年以上前にナンシーさんが指摘したことは、何も今に影響していない。司会やタレント業で活躍している人たちは、ご存命であればほぼそのままの地位でご活躍中だ。その人の年齢とともに、ファン層や支持層も上へ上へとスライドしているだけ。ナンシーさんのコラム故にイメージや評判に傷がついた様子はない。少なくとも、テレビという世界の中では。
が、ネットがメディアとしてこれだけ台頭してきた。あまりネットのコメント欄や掲示板を見る方でなくても、どんな人にも苦言を呈すアンチがいて、賛否の賛しか評されない人はいないことは分かる。そして、たまに見るネットニュースのコメントで、まさにナンシーさんの指摘と似たようなことを言っている人が散見される。とても面白いことだ。
新聞か、雑誌か、テレビか。リアルタイムのニュースソース、娯楽のメディアがそれしかなかった時代。もたらされる情報やイメージは、必ず発信者の意図や戦略をはらんでいる。その時点で、メディアを通した有名人たちは、「何かしらのコントロール」をされている。
ナンシーさんは、そのコントロールを冷静に取り除いて直截に感想を言っている。あくまで、自分が感じた違和感や不快感を「なんだこれは?」と純粋に突き詰めるとそうなる。標的を傷つけるのが目的ではなく、メディアの恣意を引っぺがして、画面や紙面にあまりにのめりこんでちょっと熱くなりすぎている大衆に「ちょっと近いですよ」と後ろから肩をたたいて気づかせるような。
だから、ねちねちと私情で誰かを執拗にいじめたり、誰も守ってくれない弱者を蹴り飛ばすような印象はない。むしろ、面白おかしく、自虐も交えながら、メディアや力を持った上の立場の人間を揶揄している。そして、それに踊らされている人の肩をたたく。
ここまで書いていて、なんかチャップリンみたいだなと思う。題材や対象、表現方法が違うだけで、実はやっていることは近いのかもしれない。
自らの才覚一本で大きなものに立ち向かう時、IQや学歴ではない「人を惹きつける表現ができる頭の良さ」と、見えないアウトとセーフのラインを見極める「賢さ」が必要だ。それは生まれ持ったものではなく、その人自身が生きてきた過程で獲得していく力である。ナンシーさんには、それがあった。
ネットが発達した今、ナンシーさんがいれば。という仮定を目にすることもあるが、前述のように、ネットの中にすでにナンシーさんは遍在している。匿名の中に、ナンシーさんは形を持たずに生きているのだ。
違うのは、ナンシーさんは、自分の名前と作品でその責任をきちんと負っていた点である。誰がいつこんなことを言った、ということをしっかりと自分で負った。そして、ご自身のことを皮肉られても、真っ向から喧嘩はしない。まあ、言わせたい奴には言わせておけば、という態度である。
これは、ネットの社会では難しいかもしれない。何しろ、匿名で、責任も傷も負わないのがうまみなのだから。
ナンシーさんが今ご存命だったとして、ネットと共存あるいは同調したであろうか。SNSや動画をネタに記事を書いただろうか。おそらく、あえてネットとは線を引かれていたのではないかと思う。
ナンシーさんがネタにした有名人たちは、芸能や専門分野で「仕事」としてメディアに露出して「お金」を得ている。そこに、「お金をもらう仕事人」としての立場があるから、甘いことを言ったり舐めた態度でいるとツッコまれることがでてくる。その奥に、大きなメディアという大金を動かす闇の濁ったような存在もある。そこに、ナンシーさんの剣先は向けられる。
ネットの、特に最近のSNSや動画で人気がある人たちは、そうではない。その奥には本人の自己顕示欲しかないし、手軽な方法で全世界に自らの存在をアピールしているだけの「素人」だ。ナンシーさんの剣先を向けられる存在ではない。そこと共鳴することは多分ないだろうし、言及するほどの興味も湧かれなかった気がする。きっと淡々と雑誌上の連載だけを続けておられたのだろう。
と、好き勝手に、ここまでナンシーさんについて考察しているのだが、私はどうやら相当ナンシーさんが好きらしい。小川洋子が好きで、志賀直哉が好きで、ナンシー関が好きなのだ。
ナンシーさんの言葉遣いに、批判があることは知っている。確かに、正しい文章作法ではない。が、それすらも、本人の方言として受け入れてしまっている。この妙なタイミングで、私のナンシーさんへの憧憬は深まるばかりだ。
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