見出し画像

闘病記(2019年9月~12月頃②)

癌研有明病院での初診と診断確定まで
歯科医での宣告の後、翌週の始めに妻と癌研有明病院に行きました。癌研というとやはり国内でもトップクラスの専門病院ということを今まで縁がなかった僕でも知っている一般的評価であり、頼りになるという思いと、自分がまさかここに患者として来てしまったのか、という落胆とが入り混じる複雑な気持ちで向かうことになりました。

初回は口腔外科医からの紹介であったこともあり、頭頸科での診察となりました。医師はがん(の可能性がある)患者といえども、至って普通に淡々と診察を進め、「幹部周辺の浸潤状況を確認したい」とファイバースコープを用い、口腔だけでなく周辺の鼻腔なども確認しました。この検査をされているときは、モニターを通じて自分の鼻腔内を確認することができ、何か変なものが出て来やしないか、「手遅れです」とか言われたりしないだろうかと、生きた心地がしませんでした。妻に言わせると、あんなに緊張した様子の僕は初めて見たとのことでした。

検査が終了すると「現段階で確定はできないが、がんの可能性が非常に高い」とこちらが驚く暇もなくさらっと言われ、さらに「まずは生検し、並行して全身の検診をしていきましょう。口腔に見えているものが全てだとは限らないので。」と説明がありました。

いわゆる自分がTVドラマなどで見てきたがん告知のシーンとは異なり、説明があまりにも淡々としたものだったので、なんだか拍子抜けをしましたが、「口腔に見えているものが全てだとは限らない」ことにじわじわと恐怖を覚え、もし全身に転移していたらどうなるのだろうか、という新たな懸念に脳が支配されることになりました。さらに次回診察やCT、MRI、胃カメラ、PET-CTなどの予約を取る受付カウンターに行ったところで一冊の冊子を渡されました。

画像1

 この冊子をもらった際、まるで『あなたは「がん」です』と宣告されたような気がし、「まだ、がん確定でない、っていったじゃーん」と自分で突っ込みながらも、息が止まるような思いの中、大変落ち込みました。

しかし、じっくり内容を読んでみると、医師との診察でどんなことを聞いたらよいか、伝えておくべきことは何かという心構えや、自暴自棄にならぬよう、重要な話は誰かと一緒に聞く、仕事は整理してもすぐに辞めないなどの、がんとなったこと(たとえがんの疑いであっても)でパニックとならず、冷静に今の生活を継続し、前向きに治療していくための情報の整理がしてありました。この冊子のおかげもあって、泰然自若とし、検査を受けながら、一縷の望みを持っていようと思い直すことができたといってもよいかもしれません。

ところで、次の診察までの間には沢山の検査と時間があります。望みを持ってはいたものの、毎日のように不安は押し寄せます。今思えば、やらなきゃいいものを、夜な夜なタブレット端末で口腔がんの症例や論文を検索し、完治例もあれば、口腔にできたがんの部分から周囲をごっそり取り除いて上顎に大きな穴が開くような写真を見てしまい、恐れおののき、その不安を妻に吐露する、ということが毎晩のイベントとなっていました。(この時はまだ口腔がんだと思っていました)

それでも、妻は「どんな顔になってもパパはパパだよ」と優しく諭してくれました。優しい妻との会話は僕の精神安定剤で、ギリギリの精神状態から度々救ってもらいました。妻は妻で心配でたまらなかったはずなのに。

実はこの中間には、プライベートでも仲の良い友人の結婚式の司会を頼まれていました。お断りしようかとも思ったのですが、式の間際で断ることで大事な二人の結婚に混乱をもたらしたくなかったし、何より幸せを祝いたかった。また、妻も司会を全うすることに賛成してくれたこともあり、やり遂げることにしました。新郎新婦には重病である可能性を隠しながらも準備から周到に行うことができ、我ながら会心の司会ぶりであったと思います。二人の記念すべき結婚式に少しでも役に立つことが出来て本当に良かったと思っています。

画像2

また、その流れで、結婚式に出席していた仲の良い同じ業界の経営者仲間二人に告知をしました。家族以外では初めての告知であったと思います。彼らも父から事業を継ぎ、年齢も境遇も似通っており、何より気が合う仲間だったので、無用な心配をかけるのは嫌だと思いつつも、自分が入院でいない間の業界団体の運営を任せるにあたり、正しく告知をし、いない間の仕事を任せ、絶対に戻ってくると誓いつつ、一方で自らの気持ちを奮い立たせる契機としました。後に彼らは心強い闘病の支えとなってくれます。

その他にも、この検査から確定診断の期間には様々なイベントを精力的にこなしました。背景には、例の冊子にも「できるだけ普通に過ごす」とのアドバイスがあったことと、僕の予想を超える検査結果が待っていて、普通な日常を過ごせる機会がもうない可能性があることの恐怖もあったからです。

例えば、公共慈善団体での新会員勧誘パーティでも団体の魅力をプレゼンテーションさせていただきました。もちろん、この役目を降りるという選択肢もありましたが、結婚式と同じく、やり遂げるという道を選びました。実は、事前に団体の事務局には告知をさせてもらっていました。事務局は団体にとっても僕個人にとっても母親の様な存在で、電話で告知をした際のやさしい言葉には思わず涙してしまいましたが、このパーティまではキッチリと役目を果たそうと思い、また、それを後押ししてくれました。なお、このパーティの後、団体の幹部には告知をさせていただきました。

さらに、中学受験を控える息子の学校見学にも同行し、中学生になる自分を想像してキラキラとしている息子の瞳を見て、とても幸せな気持ちにもなりました。ほんのひと時ではありましたが、自分が今すべきことを精力的にこなすことができた時期でもありました。

画像3

約3週間の時間を経て、9月の末頃にすべての検査が終わり、頭頸科の先生の診察に行くと、「結論として腫瘍と思われるものは頭頚部、上顎の右奥に限局していますが、口腔がんではありませんでした。悪性リンパ腫の可能性が高いです。本日は再生検させていただいて、次回以降はその生検結果をもって頭頸科ではなく血液腫瘍科で診察を受けてください。」との診断でした。

このころには悲しみや不安を乗り越え過ぎていた上に、その時は悪性リンパ腫を良く知らなかったので、口腔がんでないために、切除で上顎にごっそり穴が開くことはない、また全身に転移しておらず、頭頚部に限局しているという事実に少しほっとしてしまったことを覚えています。ここで本当に「がん」と宣告されたにも関わらずにも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?