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$ローマ帝国と海の支配

$ローマ帝国と海の支配



$都市国家から始まったローマは、前1世紀末までに地中海全域を支配し、前27年に共和政から帝政に移行した。当初は共和政的要素も残り元首政がとられ、2世紀の五賢帝の時代には最も安定し領土も最大になった。しかし、軍人皇帝時代の混乱、ゲルマン人やササン朝の侵入などがあって次第に衰え、専制君主政に移行し、395年には東西に分裂した。その間、キリスト教が帝国内に浸透、厳しく弾圧されたが、次第に信者が増え、313年に公認、さらに国教となった。

世界帝国ローマ

$最も領土が拡大していた時期のローマ帝国版図(117年

我らが海(われらがうみ、: Mare Nostrum)とは、古代ローマにおける地中海の呼称。1861年のイタリア統一後、イタリアローマ帝国の後継者だと信じるイタリアのナショナリストによって盛んに用いられた。我らの海我々の海とも訳される。

古代ローマ時代


ローマ人が地中海を表す用語として「我らが海」の名を用い始めたのは、カルタゴとのポエニ戦争中にシチリアサルデーニャコルシカ島を征服してからである。紀元前30年にローマの支配はイベリア半島からエジプトにまで拡大し、「我らが海」の語は「全地中海」を指す文脈で用いられるようになった。他にも「内なる海」(Mare Internum)などの名前が用いられていたが、「地中海」(Mediterraneum Mare)の名は含まれていなかった(「地中海」という語が作られたのはローマ帝国の衰亡英語版)後の後期ラテン語の時期であった)。

地中海方面とインド洋からアジア海域を結ぶ海上の交易路。東方から陶磁器などが製法に運ばれた。

 東西貿易は陸路だけではなく、早くから船を使った海上貿易も盛んだった。まず1世紀ごろ、ローマ帝国の地中海世界支配の確立によって、そのもとで海上貿易に従事していたギリシア系商人が紅海やペルシア湾からインド洋に進出し、クシャーナ朝や南インドの王朝と交易を行い、インド洋交易圏が成立した。この時期のギリシア人商人の活動は、ギリシア語文献の『エリュトゥラー海案内記』に見ることが出来る。さらに東南アジアから中国沿岸を結ぶ東西交易ルートにつながっていった。
 特に8世紀以降西アジアにイスラーム教が起こると、イスラーム商人(ムスリム商人)の紅海、アラビア海での活発な海上貿易活動が始まる。11世紀以降になると宋や元などの中国の経済力が高まり、中国商人が東南アジアからインド洋に進出し、特にジャンク船陶磁器を運び、ムスリム商人と取引をした。また東南アジアからインド、アラビア海沿岸にはいくつかの港市国家が繁栄していた。これらの海洋を利用した船による東西貿易は海の道または「海のシルクロード」といわれ、または特にインド洋に面した地域や中東、地中海世界まで陶磁器がもたらされたことから陶磁の道と呼ばれている。また最近は沈没した貿易船の引揚げなども進み、注目されている。







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