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親を看取るということ     義父編

今回は義父のお話し。
実母の逝去から1年半で実父が亡くなったのだが、義父はその真ん中あたり。
それから半年後に義母が亡くなったから、2年で4人を看取ったことになる。

葬儀のあれこれも十分学習した。
立て続けに葬儀を出すのははっきり言って大変だ。
コロナの真っ只中であり、家族葬とか最小限にできたのは幸いだった。

さて義父だが、義兄夫婦と孫たちとの生活であり、夫の実家にいた。
体調が悪かったり、火傷をしたりで、亡くなる前2年間は入退院を繰り返し、寝たきりになってしまった。
しかし認知面の問題はなく、穏やかな入院生活を送っていた。
その義父に胃癌が発覚した。
義兄はもう自宅ではみれないと言い、寝たきりの人の多い小規模な病院への転院の話しがでた。
私はそんな病院にいれるのはしのびなかった。
30年以上、そういう人達をたくさん見てきたこともあるし、転院先は20キロ以上離れている。
なかなか見舞いにも行けない。
何より、今の義父には似つかわしくない転院先だ。

長年の看護師経験が看取る事のハードルを低くしていた。自信もあった。
大丈夫、うちでみれる…。

私は夫に義父を引き取ってもいいよと提案した。
夫は退職していたが、介護の経験はない。
それでも"そうしたい、協力して欲しい"と言ってきた。
それからの病院の対応は早かった。
医師、介護士、看護師の手配を行い、準備が整ったとなるとすぐさま退院。私達の寝室はさながら病室と化した。酸素吸入器、吸引機、下腹部皮下への持続点滴。
義父の隣りでは夫が休む。
時々談笑している声が聞こえる。
食べたいものを聞き、いさんで買いに行く夫を見ていると選択は間違っていなかったと心の中で拍手👏をする。

ある日桜もちが食べたいと義父が言った。
癌で閉塞している状態だ、難しいだろう。
病院なら許可しない。
夫は買いに出かけたが、時は7月。
「おじいさん、柏餅しかなかったわー。」と言って帰ってきた。
義父は「いがいが」(いーよ、いーよ)と嬉しそうに少しずつ食べさせてもらい始めた。
が、とうとう自分で持って食べ始め、一個を完食してしまった。
美味しかったのだろう、「ありがと、ありがと」となんども呟いていた。
しかし案の定通過せず、吐き出してしまった。
誤嚥しなくてよかった…。(*´-`)
でも嬉しそう…。(^。^)
自宅だからこそできた親孝行だった。
結局、最後に食べたものは柏餅…。
今でも夫との語り草だ。

孫、息子、嫁、かわるがわる面会に来てくれた。
話しもできた。
義父にとってはにぎやかな居心地の良い時間だったに違いない。
私達の飼っている犬もしばし布団に横たわり、感情共有しているようだった。

自宅介護が始まって2週間経った頃から、痛みが増してきた。
医師からは麻薬の使用について提案があった。
あくまでも私達の気持ちを尊重してくれる穏やかな信頼できる医師である。私の経験上、麻薬の使用は死期を早める印象があった。
痛みと闘う事で人間の命は頑張れる。だが、麻薬という媚薬は痛みと意識のバランスがとりづらい。
夫は義父の気持ちを確かめた。
予測されることも全て話した。
義父は麻薬使用に同意した。
そして、土曜日の17時に医師に気持ちを伝えた。
うかつだった。
この時間はたいていの仕事は切り上げる時間だ。   簡単には整わない。
しかし医師は"できるだけ早く処置できるよう頑張ってみます。"と言い、手配を始めてくれた。
薬剤師、医師、業者が拙宅に集合できたのは21時過ぎていた。
ありがたかった。
麻薬ポンプの準備、開始、注意事項などひと通り話しを聞き、みなさんが帰宅されたのは23時過ぎていた。
それから2日間私達はどちらかが、付き添い、そばにいた。
呼吸が不規則になったのは日曜日の夕方…。
そして義父の呼吸は静かにだんだんと延長し、月曜日の朝方完全に止まった。
穏やかな穏やかな義父らしい最期だった。
医師の死亡確認後、義父は夫の実家に半年ぶりに帰った。

空っぽのペットに泣き伏す夫がいた。お父さんは頑張ったよ。よくやった。またいつかお義父さんに会ったとき、きっと褒めてくれるよ。
それまでおあずけだね。

        "終わってしまった。"
        そんな気持ちだった。

私は実父の最期の仮を返したような感じがした。

自宅介護に向けた地域のネットワークは素晴らしかった。
良い方々に恵まれた。
住んでいるこの地域を誇りに思う。

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