見出し画像

夏の盛りの星は沈まずー久世星佳を語りたい

ほんの数日前の、久世星佳という存在を知らなかった私は、まさか自分が20歳も離れた同性の画像をスマホの待ち受けにする日が来るとは思ってもいなかった。百歩譲って宝塚現役はまだいいとして、現在の画像を見てニヤニヤしていると正直ご本人に申し訳なくなる。

宝塚と私の遍歴といえば、真琴つばさの『チェーザレ・ボルジア』の地方公演のチケットが生協で売りに出されていたため、一度は見てみたかったのだろう母の付き添いで小学生の頃に観劇。 完

と三行で事足りてしまう。

チェーザレ・ボルジアは小学生には難解で、内容を理解できたのは宝塚ではなく、川原泉の『バビロンまで何マイル?』だった。
そのため、ずっと『小さい頃宝塚見たな~』という記憶しかなかった。
 
母の宝塚の興味もそこで終わり、私は男役の宝塚より、女装のIZAMを始めとしたバンドブームに青春を捧げた。まさかそれから25年の月日を経て、真琴つばさの二番手時代を毎日観る日が来るとはである。
 
 
久世星佳の時代は前も後ろも華やかなスターが並んでおり、中でも天海祐希は初夏の朝日のような人で、その輝きは瑞々しさと爽やかさに溢れていた。
天海祐希の男役の良さは、第二次性徴前のような少年らしさにある。
萩尾望都の『ケーキケーキケーキ』や『セーラ・ヒルの聖夜』に出てくるような、長い髪をキャスケットに隠しズボンを履くだけで、街の人が皆、男の子と間違える(現在の発育の良さでは天然記念物だ)、少女と少年の境界が曖昧な刹那を具現化したのが『男役の天海祐希』という存在だ。
 
対して久世星佳は、高潔な色気を持つ、夜がよく似合う成熟した男役だ。
無駄な肉も、余計な筋肉もない、まさに上流階級の肢体で黒燕尾を纏えば、子を宿す性とは思えぬような孤独を背負い、酸いも甘いも知り尽くした禁欲的な色気がにじむ紳士が出来上がる。
上着の下襟を細く長い指でつまみ、真っ直ぐ立つ姿は、生まれながらの貴族のようであり、また、帽子(時には三度笠)の扱いも上手く、何の気なしにポンと乗せて、あっという間に美しい陰影を造ってしまう。
鏡のない中、一発でつばから右目の半分だけを覗かせる粋さはすごい。
 
下町育ちの、明るく親しみやすいが喜怒哀楽がはっきりしているイケメンと、クラシカルで気難しそうに見えて、笑顔が優しい貴公子。
正反対の印象ながら、長い手足と高い等身というスタイルの良さは瓜二つの二人は、順調に階段を上っていた久世星佳を追い越した形で、先に下級生の天海祐希がトップの座に就いた。
 
当時は本人もファンも、少なからず思うことはあっただろう。
しかし、全てが過去となった25年後の現在、天海祐希時代がなければ、私が魅了されたジョン卿から銀ちゃんまでをこなした久世星佳がいたのだろうかと疑問に思う。
 
追い抜かれた理由を自身に求め、『男役とは』『演じるとは』と探究した姿や、天海祐希の明るい魂に素直に魅了され、同じ役者として下級生だろうとその力を認め、辛い立場に置かれた若すぎるトップを支え、鍛え合った久世星佳の姿に、当時のファンも現在の私も惹かれるのだろうと思う。
なにより、彼女が三番手や二番手時代を長く過ごしてくれたおかげで、たくさんの役柄と様々な衣装を身にまとう彼女を見れることが最もうれしい。
 
 
ちなみに私の久世星佳の原点は、『タカラヅカオーレ』のパレードだ。
『ル・ポアゾン』のパレードでの、涼風真世の歌声と端正な美貌で宝塚に嵌り、天海祐希が羽根を背負う姿が見たくて『タカラヅカオーレ』に出会った(羽根は背負っていなかった)。
初めはオーレのパレードの久世星佳を涼風真世と勘違いしており、「やっぱりこの人格好いいな」と思っていたのも今となっては懐かしい。
 
あの、応援団長のようなきりっとした凛々しさを持ちながら、満面の笑顔でバトントワリングのようにシャンシャンを振り上げる姿。
真っ白なズボンに皺一つ付けず、真っ直ぐに大階段を下りる所作の美しさ。
ラストスパートに向けての掛け声の勇ましさ。
天海祐希や麻乃佳世に負けじとのけぞり、腕を振り上げ、狂ったように踊り続け、幕の向こうの人となる一つの演目にかける懸命さ。
それらがオールバックで決めた、あの端正な顔の元で行われていた。
ギャップ萌えの詰め合わせである。
 
 
ちなみに剣幸からの月組歴代のトップスターを観ていると、少なくとも二つにタイプに分かれると思う。
一つは太陽のように、目も眩むような光を持って生まれたタイプだ。
涼風真世・天海祐希・真琴つばさがそのタイプで、トップ娘役や二番手がいなくても一人で輝きを放ち、その光は宝塚という枠を越えて外の世界にまで届く強さを持つ。
 
もう一つの剣幸と久世星佳は、輝かせたい人ができた時に、その人のために輝くタイプだ。夜の星のように、自分を頼る旅人を導き、守る光を放つ。
月のような久世星佳が星となり、自ら輝き出したのは、唯一の伴侶・風花舞の舞踏を照らすためであるように勝手ながら感じる。
 
三番手・二番手時代の久世星佳は、天海祐希の伴侶だった麻乃佳世や、雪組トップスター一路真輝を始めとして、多くの人のエスコートをした。
常に優しく柔らかく、娘役が踊りやすいように合わせてやる紳士だった。
 
そんな紳士な久世星佳が、格別の眼差しを送ったのが風花舞だ。
風花舞が回りたいだけ回れるように、跳びたいだけ高く跳べるように、その先で泰然と受け止めてやれるように、目を離すことなく踊り続ける。
その視線には、踊るために生まれてきたような彼女の踊りを、自分すら邪魔にならぬよう観客に見てほしいという願いが込められているように見える。
 
 
トップ時代を振り返るインタビューでは、初日の出番待ちのときに『(トップとは)孤独な立場だと思った』と語っていた。
実際トップとは孤独なものだろう。仲が良くても、言いたくなくても言わなくてはならないことも、反対に胸に秘めなくてはいけないことも出てくる。
風花舞はそんな久世星佳を、例え舞台上だけでも孤独にさせなかったように見える。
 
宝塚の一般的な関係性ヒエラルキーでは、トップスターとは唯一無二の存在であり三角形の頂点だ。
トップ娘役はトップの横に立つ存在に見えて、実際は二番手と同格となる。
実際、真琴つばさの時代となると、風花舞は真琴つばさの後ろで、二番手の紫吹淳と踊ることが圧倒的に多くなった。
しかし、久世星佳時代のトップスターとトップ娘役は同格だ。

愛する人と彼女の店を守るため、全ての罪を被ったフォレスティエを追いかけ、利益の有無で男を見定めてきたピスタッシュが『共同経営者って夫婦みたいで素敵じゃない』と利益を置いて、ともに被告人席に立ったように。

月組の王様・久世星佳の隣には王妃様である風花舞が寄り添い、王様が一人銀橋を渡るときは、王妃様が全員を従えて真後ろから支えた。
二人の抱擁は、互いを一等の宝物だと伝えるような温もりに溢れている。
1996年に生まれた、たった一年間だけの月組の王様だが、25年経ってもその愛情深さに胸を打たれる。
 
 
現実でも2.5次元でも、自分は惚れやすいタイプだが、年を重ねるほど心底、人に惚れることはできなくなってくる。
昔惚れた人の面影に重ねているだけだったり、仕事の姿が好きなの!本当の性格は知りたくないの!と一人の人の全てを愛す難しさを知るばかりだ。
 
久世星佳という人は、そんな擦れた心を真っ新に戻してしまう危険な人だ。

『マンハッタン不夜城』のパレードで、濃紫のスーツに薄紫と純白の羽根を背負い、花菖蒲のように凛として立つ姿にはいつも胸が打たれる。
階段を降り、左右に控える組子を見渡し、最後に風花舞を認めるその眼差しは、父性と母性の両方が溢れた本当に優しいものだ。

二番手時代は、舞台のパリッとした『久世星佳』と、稽古場で穏やかに話す『のんちゃん』は全くの別物だった。
真山葉瑠に巻き込まれて、たれ目をなくして笑うのんちゃんと、舞台で役をこなす久世星佳を重ねるのは難しいくらいだ。

『マンハッタン不夜城』のパレードが特に印象的なのは、一番大きな羽根を背負って階段から現れ、銀橋の真ん中に立ち、大きな羽根を当てないように気にしながら風花舞と真琴つばさの真ん中に戻るトップスター『久世星佳』の笑顔から、照れ屋で、可愛くて、組子に素直に助けてと言える柔らかな『のんちゃん』をしっかり感じられるからなのだと思う。

トップスターの仮面を被ることなく、これまでの努力で培ってきたものと、自然と自分を形作ってきたものをストンと落とし込んだ強さが、あの慈愛に満ちた微笑みになるのかと、その人となりの美しさに惚れ直してしまう。
 
 
なにがうれしいかって、今でも舞台に行けば久世星佳の演技が見れるのだ。
『HELI-X』ではミニスカ×タイツ×ロングブーツで、金髪前下がりボブの彼女が観れる。ご本人は配役時に戸惑っていたが、共演者との写真を見るたびに『のんちゃんが一番格好よくて一番可愛い!』と思わずにはいられない。
この衣装を久世星佳に着せようと決めた方は素敵だ。
 
次は宝塚OGによる『8人の女たち』が始まる。
早く真琴つばさとの2ショットが見たい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?