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【意外と知らない】ヒトラーと日本の知られざる関係

ヒトラーの言葉

皆さまは、ナチスドイツを率いたヒトラーと、当時の大日本帝国が、どのような関係にあったかご存知でしょうか?

今回は、意外と知らない、ヒトラーと日本の知られざる関係について解説します。

ヒトラーは獄中で書いた「我が闘争」に、こんな言葉を残しています。

世界には、3つの人種がいる。

1つ目は「文化創造種」で、これは一等種である。

2つ目は、文化創造種の創った文化に従う「文化追従種」で、これは二等種である。

3つ目はこれらの文化を破壊する「文化破壊種」である。

ヒトラーは、文化創造種は、金髪・青い目で、ドイツ・オーストリア・北欧に広がる民族である、ゲルマン民族のみで、日本人は文化追従種、ユダヤ人は文化破壊種である、と見なしていました。

また、ヒトラーは『我が闘争』の中で、当時、世界に蔓延していた「黄禍論)」、つまり反日感情は、ユダヤ人が扇動したものであると書きました。

また、ヒトラーは日本人とユダヤ人の結びつきについて、こんな言葉も残しています。

『ユダヤ菌』の発見は、世界の一大革命だ。

今日、我々が戦っている戦争は、実は前世紀のパスツールや、コッホの闘いと同種のものなのだ。

いったい、どれほどの病気が、ユダヤ菌によって引き起こされていることやら。

日本はユダヤ人を受け入れなかったので、ユダヤ菌に汚染されずに済んだのだ。

ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる。

全ての病気には原因がある。

偶然などない。

1925年、『我が闘争』に書いたのだが、ユダヤ人は日本人こそが、彼らの手の届かない敵だと見ている。

日本人には鋭い直感が備わっており、さすがのユダヤ人も、内部から日本を攻撃することは出来ない、ということが分かっているのだ。
となると、外から叩くしかない。

本来、イギリスとアメリカにとって、日本との和解は多大な利益を意味する。

その和解を必死に阻止しているのがユダヤ人なのだ。

私は警告を発したが、誰も聞く耳を持たなかった。

発言の是非はともかく、当時のヒトラーが日本をどのように見ていたのかが、うかがえる言葉ですね。

日本に詳しかったヒトラー

実際、ヒトラーは、日本について、かなり詳しい知識を持っていました。

その情報源のひとつが、ドイツの代表的な地政学者、カール・ハウスホーファーです。

ハウスホーファーは、在日経験もある、日本研究家で、流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残しました。

ハウスホーファーは、ヒトラーに『我が闘争』の執筆を勧め、ヒトラーの政治顧問を務めました。

しかし、1941年6月に、ナチス政権が独ソ不可侵条約を破棄し、ドイツ陸軍がソ連への侵攻を開始すると、彼はヒトラーと政策面で意見が合わなくなり、冷遇されるようになった、というエピソードがあります。

また、1939年、ベルリンで「日本古美術展」が開かれました。

ヒトラーはこの美術展に訪れ、日本の多くの古美術を、熱心に見てまわったそうです。

特に、平清盛像に異常な関心を寄せ、いつまでも覗きこんでいました。

平清盛といえば、一代にして栄華を極めた男、ヒトラーは平清盛に、自分の姿を重ね合わせていたのかもしれません。

日産自動車の実質的な創業者で、満州重工業の総裁、鮎川義介は、ドイツを訪れて、ヒトラーに面会しました。

その時、ヒトラーは鮎川義介に、こんなことを話しました。

「ドイツにとって、日本にはどうしても、まね出来ないものがある。 それは、万世一系の皇統である。 これはドイツが100年試みても、500年頑張っても出来ない。 大切にせねば駄目ですよ」。

当時、 君主政治を完全に近い形で実現している国は、日本だけでした。

ヨーロッパの王朝では、国王は飾り物的な意味合いが強く、国王は圧政をし、国民と対立関係にあったのです。

一方、日本では、天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛するという関係が、ごく自然な形で成り立っていました。

ヒトラーはこのように、君民一体の理想的な国家形態を、伝統的に継承している日本に、敬意を表わしていたのです。

日独伊三国同盟

1936年、日本はドイツと「日独防共協定」を結びます。

また、1940年9月27日、日本はイタリアと共に、ドイツと日独伊三国同盟を結びました。

第二次世界大戦前後、ヒトラーは同じ敵を持つ仲間として、日本を考えていました。

しかし、第一次世界大戦のとき、日本はドイツとは敵対関係だったことを、覚えていますか?

ドイツは日本を、明治以来、ドイツに教えを乞いながら、第一次世界大戦では、イギリス側で参戦し、極東の植民地をかすめ取った国、という風に見ていました。

しかも、日本の産業構造は、外国から資源を輸入し、工業製品を輸出する、とドイツと同じなので、資源の確保と国際市場の占有において、ライバルになります。

実際、支那事変以前の数年間、日独関係は良好ではなく、当時のドイツの将軍たちは反日的で、その将軍たちは、上海付近の中国人の、防衛陣地の建設に協力していました。

縦横に張り巡らされた溝を利用した、ドイツ式陣地の突破に、日本陸軍は苦戦を強いられていたのです。

このように、日独関係は良好ではありませんでしたが、実はヒトラーは日本の実力を、侮り難いものだと考えていました。

ナチス・ドイツの軍需大臣を務めた、建築家アルベルト・シュぺーアは、次のように書いています。

「ヒトラーは、人種的観点から、問題の多い同盟を拒否しなかったが、日本との対決を、遠い将来に予想していた。 ヒトラーは、イタリアをそれほど強国とは信じていなかったが、日本を列強国かつ、同盟国と見ていた」

また、ヒトラーは「日本がドイツの最終的なライバルになる」と、よくシュペーアなど、側近に語っていました。

ポーランド侵攻直前には、イギリス大使ネヴィル・ヘンダーソンに対し、ヒトラーは「大戦争が起きれば、各国が共倒れになり、唯一の勝者が日本になる」と伝えています。

このように、ヒトラーは当時の日本を、同盟国であるとしつつも、強大な力を持つ国として、警戒していたことも分かります。

また、当時の国際関係を見てみても、なぜヒトラーが日本に歩み寄っていたかが、よく見えてきます。

ヒトラーは政権獲得以来、着々と再軍備に努め、領土拡張に乗りだそうとしていました。

1936年のラインラント進駐、1938年のオーストリア併合と、その拡張政策はつぎつぎと成功しました。

しかし、1938年5月に、ヒトラーは初めてつまずきます。

当時、ヒトラーは、ドイツ系住民が多くいる、ズデーテン地方の割譲を求め、それをきっかけに、チェコスロヴァキアに侵攻しようとしていました。

両国の関係は一触即発の状態、さらに反応したのはチェコだけではありません。

イギリスとフランスが、チェコ侵攻は第二次世界大戦を意味すると、警告を発したのです。

さらに、東の大国・ソ連も、チェコスロヴァキア援助の用意がある、と警告します。

これでは、さすがのヒトラーも、引き下がらざるを得ませんでした。

ヒトラーは、これでチェコ征服をあきらめたわけではなかったのですが、ドイツには、イギリス・フランス・ソ連を相手に、2度目の大戦に突入する余裕がなかったのも現実。

それでも、拡張政策を続けようとするなら、戦争をチェコ一国に対するものに、限定する必要があります。

その条件を整えるには、英仏ソの介入を牽制する、何かを確保しなければなりません。

ヒトラーが眼をつけたのは、日本でした。

日本と軍事同盟を結ぶことができれば、英仏ソは、極東の国土や植民地においても、戦争に突入すると覚悟しないかぎり、チェコ支援を実行することはできません。

ヒトラーは、英仏ソのいずれも、そうした大戦争を行なう意思も、準備もないだろうから、ドイツはヨーロッパで思うように、領土を拡張できると考えていました。

このヒトラーの目論見により、日独は接近し、日独伊三国同盟締結に至ったのです。

このように、ヒトラーにとって、ドイツの領土拡大のために、日本は戦略的に必要不可欠な存在でした。

ある意味、ドイツの夢であった、世界強国という理想に、日本が参画させられたという見方もできるでしょう。

開戦後のヒトラー

第二次世界大戦開戦後、日本とナチスドイツ、ヒトラーの関係は、ますます親密になります。

1941年12月7日、日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が開戦します。

ヒトラーはその直後の、12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。 我々には三千年間、一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と、日本を賞賛し、アメリカに宣戦しました。

1943年、ナチスは、ドイツ製の潜水艦2隻を、日本海軍に贈りました。

ヒトラーはドイツ海軍、専門家の強い反対を押し切って、実現させました。

日本海軍に寄贈された潜水艦は、当時の最高水準の性能を持つもので、日本の大型潜水艦より、ずっと小型でした。

その性能や装備は、日本の技術者たちに、同じような潜水艦の建造を、断念させたほど高度なものでした。

例えば、鋼板の堅さは、日本で使われていたものの2倍の強度で、爆雷攻撃に対しても強かったのです。

鋼鉄は強度が大きくなると、溶接がとても難しくなるのですが、当時の日本の溶接技術は、高くありませんでした。

そこでヒトラーは、溶接技術の優秀な専門技師3人を、寄贈された潜水艦に搭乗させて、1943年7月、日本に派遣しました。

また、ナチス親衛隊の長官、ハインリッヒ・ヒムラーは、大戦中の日本軍の強さに感銘し、日本人がゲルマン民族であることを、学者に証明させようとしました。

ヒムラーは、日本人から日本刀を贈られたとき、日本人とゲルマン人の、祭式の共通性を発見し、「どうしたらこの共通性を、種族的に解決できるか」の研究を、学者とともに進めました。

これは、ヒトラーがよく「なぜ我々は、日本人のように、祖国に殉ずることを、最高の使命とする宗教を持たなかったのか。 間違った宗教を持ってしまったことが、我々の不幸なのだ」と語っていたのを聞いていたから。

ヒトラーは、日本の神道を高く評価していたのです。

戦局が、ドイツにとって不利に展開していった、1944年夏、ヒトラーは高校に、日本語を必修科目として、取り入れることを命令しました。

最初は、一校だけをモデル校に選んで、試験的に授業を行なっていましたが、最終的には、全ての高校で英語の代わりに、日本語を必修科目にする計画でした。

その他にも、菜食主義者で、禁酒家・禁煙家であったヒトラーは、日本の豆腐に注目します。
ヒトラーは「ローマ軍は、菜食であれほど強かったのだから、ドイツ軍兵士にも、豆腐を食べさせよう」という計画を立てていたとも言われています。

このように、第二次世界大戦が始まると、ヒトラーは日本を同盟国としてだけでなく、「見習うべき存在」としても、日本を見なしていたのです。

ヒトラーの遺言

しかし、ついにドイツは追い詰められ、ヒトラーは地下壕で遺言を書きました。

そこには、ヒトラー最後の、日本へのメッセージが残されています。

「我々にとって、日本は如何なる時でも友人であり、そして、盟邦でいてくれるであろう。 この戦争の中で、我々は日本を高く評価すると同時に、益々尊敬することを学んだ。 この共同の戦いを通して、日本と我々との関係は、更に密接で堅固なものとなるであろう。 日本が直ちに、我々と共に対ソビエト戦に介入してくれなかったのは、確かに残念なことである。 それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間に、ブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍は、ブダペストには来ていなかったであろう。 ドイツと日本は共同して、1941年の冬がくる前に、ソ連のボルシェビズム、社会主義思想を、殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国、ドイツと日本と、事を構えないように気をつけることは、容易ではなかったであろう。 他面において人々は、1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを、残念に思うだろう。 アメリカは、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。 その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。 ドイツと、日本との運命共同体は存続するであろう。 ドイツと日本は一緒に勝つか、それとも、共に亡ぶかである。」

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