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安倍首相銃撃事件から考える、痛みの正しい訴え方とは?〜たおのエッセイとメンバーの思い〜


0.発端


団体を立ち上げる1ヶ月前。


たお「とある政治的な事件を切り口にエッセイを書いたので読んでみてほしいです。」


いきなりそう言われた。


団体としては、まだ「ウェブメディアを運営する」ということぐらいしか決まっていない。とはいえ最初の記事ができそうだったので、メンバー何人かで読んでみた。




山口セナ「これだよこれ!私が言いたいことはこれだ!」




代表からはとても好評だった。




TAKEN「いや、でもさ、これを最初に出してくるウェブメディアってどうなんだ??」




記事の校正担当のTAKENは、うなってしまった。この文章は一回寝かせてあげたほうがいい、直感的にそう思った。




そうして4ヶ月ほど経って、ようやくこの文章を出す準備が整いました。


エッセイそのものはメンバー”たお”の個人の考えにすぎませんが、その内容は他のメンバーにもいろんなことを考えさせられたので、今回の記事では、エッセイのあとに3人のメンバーによる感想を合わせて載せてみました。皆さんも読んでみていろんなことを考えてみてください!



1.エッセイ『たたかいのススメ』


ニュースを見ていると、たたかい方を間違えたのではないかと思う人がときどきいます。たとえば、安倍晋三元首相を銃撃した山上徹也容疑者です。私は断片的なニュースしか見聞きしていないため、容疑者の動機について深く理解できているとはいえませんが、母親が旧統一教会に多額の献金をして家庭が崩壊したため、教団を日本に招いた岸信介の孫である安倍晋三に恨みを抱いて殺害したのだといいます。




 


参考記事;「安倍元首相銃撃2か月 事件の背景 関係者の証言から明らかに」NHK 関西のニュース




 


結果的に世間の注目が自民党と旧統一教会の癒着に集まり、被害者救済法が成立するきっかけになりました。


しかし、犯行によって被害者のみならず加害者自身の人生もめちゃくちゃになってしまったことを考えると、犠牲が大きすぎたといわざるを得ません。本当に山上徹也の敵は安倍晋三だったのでしょうか。もっと洗練されたやり方で、怒りや悲しみを訴えることはできなかったのでしょうか。




 


誰かに痛みを訴えるには、まず訴えるべき自らの痛みを自覚する必要があります。


これは意外に難しいことです。ときに私たちは、心の中の葛藤を抑圧することで自分を守ろうとします。


ほんの少し我慢することで、ものごとがうまく回ることもありますしかし、それにも限度があるでしょう。心の痛みに見て見ぬふりをするとき、抑圧したことすら忘れて不満や怒りを封じ込めるとき、私たちは少しずつ自分を傷つけているのかもしれません。




溜め込まれた恨みつらみが限界を超え、攻撃的な衝動に転じると危険です。特に、自分が何に対して怒っているのかわからないまま怒っている状態は、自分にも他人にも止めることができません。


そうならないためには、自分の中のマイナスの感情が何を原因として起こっていて、どうなれば解決するのかを常に分析しておく必要があります。




 


原因がつかめたら、次はたたかうべき相手を正しく見定めることです。


ここでもよく間違いが起こります。自分がたたかおうとしているものは、本当に自分を抑圧したものなのだろうか。弱いものへの八つ当たりでストレスを発散しようとしているだけではないのか。共通のたたかうべき相手が別にいるのに、本当は手をとり合えるもの同士で潰し合いをしていないか。よく確認する必要があるでしょう。



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さて、狙いを定めたら、いよいよたたかう番です。たたかうとはいっても、もちろん暴力は言語道断です。武器は「言葉」と、平和的なデモや集会、署名運動などを一例とする「非暴力的手段」です。


言葉は人を死に至らしめうるので、言葉の暴力にも気をつける必要があります。暴力に頼らないたたかい方はいろいろあるはずですが、日本の教育はそれらを十分に教えているといえるでしょうか。


少なくとも私は、学校で正しいデモの仕方を習ったことがありません。また、生徒の声を学校運営に反映させるための意見箱を設置していない学校もあるそうです。




それぞれが感じた痛みや違和感を解消するためのたたかいは、多様性を認める社会では不断に起こっているはずです。そのような社会は、意見の違いを必然的に生み出す社会だからです。訴えたい正義や痛みは人によって違うでしょうから、たたかいを起こすこともあれば、たたかいを挑まれることもあり、誰かが起こしたたたかいを目撃することもあるでしょう。


誰もがたたかいの当事者になり得ます。それは均質で同質な社会と違って基本的にとてもめんどうなことです。しかし、そのめんどうさと終わりのないたたかいがないところには、民主主義もないのではないでしょうか。



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正しくたたかうことは、めんどうなことです。特に学校においてはそうだと思います。学校は生徒にとって、せいぜい数年在籍して去るだけの仮の居場所にすぎないので、不満を感じたとしても、たたかわず我慢して見て見ぬふりをする方がよほど楽だからです。


また、私たちは成長するにつれて、模範だった大人たちも不完全であることを知り、同時に自分自身も完全にはなり得ないことを知ります。それが私たちを「寛容」にします。先生は完璧じゃない。学校は完璧じゃない。


私たちも完璧じゃない。どうせまた別の世界が開けるのだから、今の世界が多少不自由でも、息をつめてしばらくやり過ごせばいい。みなさんには、たたかいを起こそうとする人を煙たがったり、たたかいの抑圧に同調したりした経験はありませんか。



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しかし、本当にそれでいいのでしょうか。


たたかわないことは別の誰かに同じ痛みを強いることであり、学校をより過ごしやすい場所にする機会を失うことです。そもそも、互いにとって納得できる解決を導けるなら、たたかうことは相手にとってもむしろ利益になります。また、たたかってみれば障害は意外と簡単に取りのけられたかもしれません。


道をふさぐ石は少し工夫すれば動かせるのに、誰も触ろうとしないまま避けて通るような苦労に耐え続けてはいないでしょうか。




 


どの人も、どの場所も、完璧にはなり得ませんが、たたかいを通じてその時々の最善の正しさに向かって少しずつ進んでいくことはできます。


だから、正しく挑まれたたたかいを抑圧することは、してはならないことです。それはより良い世界への可能性を閉ざす行為だからです。自らの痛みを自覚し、分析し、相手を誤りなく見定めて、暴力に訴えることなく正当なやり方でたたかうこと。


挑まれたたたかいを真摯に受けとめること。周囲で起こるたたかいをなかったことにしないこと。そのめんどうさと思う存分取り組めるような環境が、学校にあってほしいと私は思います。


学校は、暴力を用いずとも不満や痛みは解消でき、より良い現実をつくっていくことができるということを信じられる場であってほしい。


願わくば、正当な手続きを経て現実を少しでも好転させられたという経験をできるだけ多くの人がもてる場であってほしい。そのことが、一人一人が尊重される、平和で民主的な社会を築く主権者を育てるために必要だと思うのです。



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この文章は、まさに私の経験(学生だと、意見を言ってはダメですか? SENAS代表山口セナの経験談 前編)とぴったり合うものでした。この経験談のように、多くの子供たちが育まれるはずの学校で、ある生徒の意見が1人の人間の意見として尊重されずに、逆に抑圧されてしまっている場合もあります。学校で、社会で、そこに生活する全ての人々にとってよりよい現実に近づくために、生徒たちも、先生たちも、自分の思いを言うことができて、尊重されて、時には互いに「たたかう」ことができる環境は、とても大切で、学校にも欠かすことのできないものだと強く感じました。また、この文章は、末尾の部分で学校での「たたかい」と民主主義を結びつけていますが、学校は学生が将来有権者として社会に関わっていくための準備の場になるという点では、主権者教育とのつながりがあると思います。そして私はこの内容にも理由にも賛成です。でも、主権者教育の視点を置いておいて、もっと簡単に考えるとしても、学校において、生徒にしろ、先生にしろ、他の構成員にしろ、誰かの意見が不当に抑圧され続けることがあってはならないということもまた当然だと思います。
 この記事は、当たり前のはずなのにないがしろにされてしまっている、「たたかい」の大切さに気づかせる力があると思いました。


私はまさにここに書いてあるとおり、これまで学校生活の中で不満を感じることがあっても「たたかう」ことなく我慢していたように思います。仕方ないと思ってみたり、仲間内で文句を言ってみたりするだけで、もしかするとそれは我慢ですらなかったかもしれません。その結果無意識のうちに「寛容」になっていたのだと思うと同時に、自分は「たたかう」という選択肢を持っていなかったことに気がつきました。
 これを読んでくれている人の中にも、私と同じような人は多くいるのではないでしょうか?もし不満や不自由を抱え、ほかの誰かに同じ思いをしてほしくないと考える人がいるのなら、この記事に書いてあるように「たたかうことをしてもいいんだ!」って思ってほしいです。先生も学校も学生も、誰も完璧であるわけじゃないからこそ、「正しくたたかう」ことが大切で必要なことなんだと、この記事は教えてくれています。もちろんそれはめんどうなことで、それだけでなく時間も行動力も熟慮をも必要とすることだし、誰にでもできることではないかもしれないけれど、まずは選択肢のひとつとして持つことができるとよいと思います。


「たたかわないことは別の誰かに同じ我慢を強いること」。まさにその通りだと思います。私たちは大人になるにつれて「赦す」という行為を覚えていきます。学生時代明らかに理不尽だった出来事も、それによる傷も、大人になるにつれて心の中で薄れ、「そんなこともあったな」程度の認識に至ることが多いでしょう。そして、学生時代の理不尽に対していまだに文句を言っている大人に対しては「いい歳してまだ昔のことに執着しているのか」という批判がある程度生じることもあるでしょう。そこには、いつまで経ってもゆるすことのできない人は寛容でも大人でもない人だという認識があるような気がします。しかし、もし学生時代に負った心の傷が大人になっても残っているならば、それを抑圧することは必ずしも寛容とは言えないし、その「理不尽」は昔のものではなく、現在進行形のものです。また、「赦す」という過程で「理不尽」そのものが無視されてしまえば、社会的には未解決のまま新たな被害者が増え続けてしまいます。
 このように、自分がたたかわないうちに、同じような被害者が生まれ続けてしまうかもしれません。しかし、「たたかう」にも心の準備が必要で、時間がかかることでしょう。個人的には、過去の理不尽に対して、現在になってから「たたかう」こともよいと思っています。なぜなら、理不尽の渦中にいるとき、行動できないほどに弱っていたら「たたかう」こともできないからです。また、理不尽に満ちた環境から抜け出てはじめて気がつく心の傷もあると思うからです。一見大人っぽい「寛容さ」や「赦し」に甘んじて本質的な問題を無視することはよくないと思います。

 

今回はメンバーたおのエッセイと、それを読んだメンバー3人の感想を記事にしました。いかがだったでしょうか?




このエッセイは人それぞれの受け取り方があって当たり前だと思いますし、内容に全く賛同できない人もいたかもしれません。皆さんもこの記事を読んで思うところがあったら、以下のフォームにあなたの感想を送ってください!皆さんの意見をお待ちしています




 



執筆:たお