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デジタルネイチャーと貫之って|推し活(4)

関係あるのかなあ、という話。
たまたま落合陽一さんの動画を見ておりましたら、未来館に貫之の浮世絵が展示されていることを知りました。

和歌は人間の心の記録なんです。
と彼に語らせている。
(仮名序の「やまとうたは、人の心を種として…」というところを意訳したのかな。)
確かに、人間の心を直接言語化したもの、という意味で、和歌は貴重な記録・資料になりうるかもしれない。私が大好きな『短歌で読む 昭和感情史』という新書は、その意味で短歌に注目して「感情史」という試みに挑んだものでした。

そんな、貴重な和歌を普及した人物。

でも、それだけではない、かなあ。
せっかくだから、きたる未来(落合氏の言う、デジタルネイチャー)を生きるであろう我々にとっても、貫之を知るメリットはあるねんで、と、言えるなら、言いたい。

まず彼は、和歌というジャンルをその歴史性・呪性等によりリブランディングした。これは、『古今和歌集仮名序』の仕事です。
また、『土佐日記』で、「和歌とは何か」という重要な定義について触れようとしている。

かくいひつつ来るほどに、「船とくこげ。日のよきに。」ともよほせば、楫取り、船子どもにいはく、 「御船よりおほせたぶなり。朝北の出で来ぬさきに、綱手はや引け。」といふ。このことばの歌のやうなるは、 楫取りはうつたへに、われ歌のやうなる言ふとにもあらず。聞く人の、「あやしく歌めきてもいひつるかな。」とて、 書き出だせれば、げに三十文字あまりなりけり。

『土佐日記』二月五日条

説明は未遂に終わっているものの、これは結構大事なことで、「三十一文字になっていれば全部和歌になる」というわけではない、という批判精神が底にあると思うのです。当時は皆が皆、女性を口説く時には和歌を詠んだ。国民総歌人状態。ところが、貫之にとっては「それは和歌ちゃう」と切り捨てたいものがたっくさんあったのではないか。

今、絵画も音楽も、それこそ和歌も、AIが上手に創ってくれる時代です。それを使いこなせれば、皆が皆アーティスト。国民総芸術家状態です。それはとても豊かで楽しい反面、元来専門作家として生業を立ててきた人達にとっては脅威で、同時に、それぞれのジャンルの危機でもあると思います。絵画の芸術性とは?音楽の意義とは?…作品が大量に生成される舞台裏で、そういう問いかけが刻々と、各分野の定義を解体し始めている気がします。

私は、AI(LLM)の創る和歌(短歌)というものに魅力を感じたことはありません、今のところは。それは私が、一級品の和歌をそれなりにたくさん享受してきたから、一応それなりの「目利き」ができているのかも?と推測しています。その「目利き」の方法を、誰もが分かりやすいように伝えていくことが、これからの研究者(私のような趣味の在野人も含めて)の役目になるんじゃないか。

そういう点で、「和歌とは何か」に向き合っていたであろう貫之を研究する意義もあると信じたい。そしてそのために、彼の歌の表現の秘密に迫ることも必要とされてくる。これまでの偉大な研究よりも、もっと深く、狭く、精密に。それこそ、Chat GPTにどんなプロンプトを与えたら、「貫之風」の和歌を創作してくれるようになるのかを追究するレベルで、です。

貫之は、仮名序の中ではっきりと、未来の人々を読者として想定しています。

人麿なくなりにたれど 歌のこと留まれるかな。たとひ時移り、事去り、楽しび哀しび行き交ふとも、この歌の文字あるをや。
青柳の糸絶えず、松の葉のちり失せずして、正木のの葛長く伝はり、鳥のあと久しく留まれらば、歌の様をも知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに古を仰ぎて、今を恋ひざらめかも。

『古今和歌集仮名序』

まさか1000年後までとは考えていなかったかもしれませんが、今の「前デジタルネイチャー」時代を見たら貫之は何て言うだろう、とも想像してしまいます。
意外と「ええやん!」って反応してくれるかもしれないし、同時に「和歌とは何か」について、悶々と悩み始めてしまうかもしれない。



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