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ほんまる神保町で、棚主へ⑦

私はいまの会社へはドライバーとして入社した。簡単に言えば宅配便だ。
しかし同僚社員に嫌がらせを受け、「馬鹿らしくなったので辞める」と上司に報告した結果、倉庫内での軽作業へと異動することになった。
客観的には閑職ではあるが、これが性に合っていた。

正社員とは思えないような雑務を一手に引き受け、派遣アルバイトのFさん(五十代男性)と二人で、こつこつと地味な作業をするだけ。
雑務オブ雑務であるうえに、私は社員朝礼などに出席しない。
ドライバーをやっていた頃のことを知らない若手社員は、私のことをアルバイトかなにかだと思っているかもしれない。

そんなある日の夕方、一緒に働いているFさんが突然「ぐぅっ」という呻き声をあげてフリーズした。Fさんは真面目にこつこつと作業をするタイプで、話しかけなければ一日中ひと言も声を発しないような人だ。
とてもこだわりの強い人で、ラップひとつ巻くのにも独自の手順がある。「すごい……踊ってるみたい……!」と言いたくなるようなステップでラップを巻いていく、ラップ巻き職人(アルバイトだが)。
過集中の気があり、ラップを巻いているときに話しかけても気がつかない。口さがない者は「ゾーンに入った」と馬鹿にしたように言うが、私はそんなFさんのことを頼もしく思っている。

そんなFさんが、パレットに載った貨物にラップを巻いている途中でフリーズした。
そして彼は泣き笑いのような表情をし、手にしていたラップを放り出すと「hmmmmmm!」という外国の漫画でしかお目にかかれないような呻き声をあげてトイレへ向かい始めた。

倉庫は広い。
直線距離で五十メートルはあろうかというトイレまでの道のりを、Fさんは競歩の選手のように進んでいく。
私もそうだが、Fさんも昭和の男。古いと言われるかもしれないが、男というものは背中で語るものだ、という規範が生きている。このときのFさんの背中には「もう出る」とおつとめフォントで大書きされていた(トップ画像参照)。
私はその背中に向かって祈ることしかできなかった。人はいつだって無力だ。

しばらくして戻ってきたFさんは、力なく笑いながら言った。
「急に腹を壊しちまいまして」
そして続ける。
「変なもん食った心当たりはないんですけどねぇ」

私は「そうなんですか。調子が悪いようでしたら早退したっていいんですよ」とだけ返したが、頭の中には昼休みのFさんの様子が蘇っていた。

遡ること数時間。昼休み、Fさんはぼりぼりと音を立てながら食事を摂っていた。私のすぐ後ろの席。Fさんは変わり者だ。なにを食っていたとしても驚かない。だが、その咀嚼音が気になった。
なにを食ったら、そんな音が出るのか。音から想像するに、コーンフレーク? 牛乳をかけずにそのまま食べればこんな音がしそうではある。
「コーンフレークでファイナルアンサー!」と心の中で唱え、確認する。
Fさんは冷凍ピラフを加熱せずに食べていた。さすがFさん。想像を超えてくる。

「心当たりはないんですけどねぇ」じゃない。
心当たれ。

しかしそれも客観的な立場だからそう思えるのかもしれない。

急に棚主としての話になるが、私の棚から本が売れないのも、客観的に見たら明確な「なにか」があるのかもしれない。
どうしたものか。これでは新たに発注をかけるのも怖い──と思っていた矢先、「出品本が購入されました!」とメールが。

そのメールを目にした瞬間、「わあぁっ!」とリアルに声が出た。我ながらかわいい(42歳男性)。

しかし危なかった。つい数分前までマクドナルドの店内にいたのだ。そのときにこのメールを受け取っていたら、完全に不審者の挙動をしていたことだろう。
自宅でゴロゴロしていたところだったので、思う存分に不審者の挙動をすることができた。

嬉しい。
そのひと言に尽きる。
買った人の年齢や性別などはわからない。しかしそんなことはどうでもいい。
あの低い位置にある棚を覗き、興味を持って何冊か見比べ、これにしよう、と思ってレジへ向かう。そんな姿が想像される。
自分で思っている以上に、一冊も売れていない状況は悩みの種になっていたようだ。それがぱっと晴れた。
この瞬間の喜びを忘れてはいけない。
人はすぐ、嬉しかった記憶を色褪せさせてしまう。悲しかった、悔しかったなどという記憶ばかりを何度も反芻し、そればかりが強く印象に残る。
そんなことをしていれば、どんな人生を歩もうと不幸になるだけだろう。

今回の教訓。
①喜びを忘れるな。
②冷凍ピラフをそのまま食うな。

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