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人間な僕ら、不幸な教育者

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ありふれた比喩に頭を馬鹿にする夏、心の怪物を見えるものが凌駕する日々。マーブルな情緒に様々な光。忘れても抜け殻に思いを馳せる、心の怪物はその全てを栄養にしていく。
煩わしい心を育てるのは紛れもなく夏に焦がれる僕らで、夏という怪物に平伏したくなる心に希望を要求するのは不躾なのかもしれない。とさえ思ってしまう。


夏だけを生き地獄とは表現し難い、誰もが日々生き地獄に耐えているだろう。

流れ続ける時間に乗り切れない。そのもどかしさに耐えながら逃げ込む先というのは、ガラクタだらけで何もない。幻想の先に言葉に頼る。言葉の生死は僕らに委ねられる。解説を含む詩人の入門書を読み言葉に息を吹き込む。自分の熱望は息を吹き返すか分からないが、彼らの絶望なら幾度となく蘇る。人々にその全てを享受する術があるとしたら、より多くの人間が死に絶えているのだろうか。生への活力を見出すのだろうか。

深くまで潜れるかどうかは僕らの知識や慧眼にかかっているが、底を知りたいと思う心は誰しも持ち合わせる可能性を孕んでいる。

サカナクション『朝の歌』には、
"あとどれくらい僕は深く潜れるだろう"
という歌詞がある。
表現者として山口氏がこう考えるのは容易に想像できるが、個人的には「人として誰もが抱く余地のある羨望」が顕になっているとも思う。自分が何かを理解し始めていることへの高揚、それが幻なのではないかという自分への失望。そのどちらを引き当てるか分からない。
悲しみや綻びに言葉を捜すことは、救いへの航路を渇望する身には負担が大きい。そうした苦しみに侵されても、一体自分は何を求めているのか何を描けるのかと思わずにはいられない。
何が僕たちをそうさせるのか分からないと本気で悩み、逃れようとしているわけではない。心が感情に左右されて揺れ続けているだけと、そう言わせないだけの何かを創造できるような気持ちから離れられないのである。一時的に忘れたとしても。
希望は仮定である。そして定着するか不安定である。ありふれていると分かるのに、簡単に壊れる。しかし絶望というものは主観に邪魔が入らない。自分の心に陶酔してしまえば、簡単に生気も正気も吸い取られる。その心を理解されないと思うほど独りよがりになり、感謝が建前になり攻撃的になる。頭では分かっているのに心が追いつかない。そうして地獄へ嵌る。
自分一人の主観だけで絶望というのは傲慢である。僕をそうした心持ちにさせる詩は唯一最低限、現実に張り付いているための栄養である。

真っ直ぐ生きていたいと願うか、どんなに曲がっていても揺るがない軸があればと願うか。まだ選べない。皆んな少しずつおかしいところがあって、それでいてちゃんとしているところもあって。人の面白さを感じられるのは真っ直ぐ生きることが出来ないからだ。自分の求める真っ直ぐした人間になれるのなら、その人間像から外れた全てが腹立たしい。自分の未来や希望だけに頼って生きていたら、壊れた時に修復できない。人生の責任から離れて言葉で説明できない状況を楽しんで、自分らしくないことを疲れながら謳歌する。その青春が許された若さ。戻りたいと思うことのないように変わり続けなければならない。思い出に苦しまないために変わり続けなければならない。
しかし変わりたくない気持ちが強い。決して現状に満足しているわけではない。
変えたいと思っても変えられない自分があることにうんざりする。良いところがあるからと言って自分を好きになれるわけではないのに、何のために努力するのか。他人の感情が自分の感情を上回る苦しさを強いられて、それを悔しいと思いなさいと教えられる。参考にできる成功談を持ち合わせていない大人だらけで、学ぶ姿勢が足りないという理由にされては困る。絶対はないのに努力しなさいと教えられる。僕らは数字にうんざりなんだよ。騙されると思うな。
あなたの人生は努力して変えられないものが幾つありますか。大人はきっと、悲しみを誤魔化して理想を僕らに押し付けているだけなんだ。自分たちが出来なかったことを僕らができると思うか。結局みな人ってのは、誤魔化して生きるもんなんだ。それなのに綺麗事を自分に言い聞かせる大人は馬鹿だ。美しい心にも景色にも気付かず、自分の信念を独りよがりに愛し続ける。一番の不幸者め。


子供が浅学で頼りないのは耐えられる。
浅学の大人が醜いのは耐えられない。


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