巧妙なエゴ2
以前に、
「私には本で読んだという記憶はあるつもりなのだが、
という内容が、書いてない。
夜にその本を読んでいる夢を、みているようだ。」
という、話を書いたことがある。
夢と取り違えるのだから、記憶もあてにならない。
記憶に固執するのもエゴだろう。
夢の内容について
少し、調べてみた。今回はその話。
■ フロイトによる夢判断
(中略)
そして、普段わたし達は生活をしているなかで、自我にとって都合の悪いもの(主にコンプレックスや性的な外傷、欲望)は無意識に抑圧しています。その諸内容は、わたし達が眠りにつき自我の規制が弱まったときに、意識領域に浮かび上がってくると考えました。
しかし、そのままの形で意識領域へ浮かび上がってきてしまうと自我はダメージを受けてしまい、日常生活に影響が出てきてしまうので、そのコンプレックスは検閲され、本人に受け入れやすい形に加工されて、普段、わたし達が見る夢となるとしました。
そしてフロイトは、「夢は願望を充足するために存在する」としました。
■ ユング博士による夢解釈
(中略)
そして、フロイトが「夢を願望充足のためにある」としたのに対し、ユングは、「無意識には日常生活において偏ってしまった意識の状態を補う働きがある」ということを主張しました。
ユング博士は無意識による補償作用があるとし、夢の大きな目的となっているとしました。
このHP、夢と解釈のサイトでは、ユング博士の説をもとに夢を解釈していきます。
このサイトにあるように、
夢には 無意識の願望充足・意識の偏りの修正
という目的があるようだ。
私には、
「この本にこうゆう内容があったらいいな・あるに違いない」
という願望や偏見があったのだろう。
ニサルガは「無意識も意識の中にある」と言っていた。
唯識派では浅い無意識として 未那識というのがあった。
この深さの無意識についても、よくよく観察する必要があるのだろう。
無意識や本能も止む という段階があったように思う。
この辺に関わってくるんじゃないか。
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