I AM THAT との格闘 5 (種子生種子・クオリア添え)

日月神示の話は気になる人が多いのだろうか。
私の調べものは、以前に紹介したサイトで終わりにしてしまった。
あのサイトが最高峰じゃないか。私には逆立ちしても出てこない着想ばかりだ。

今回の質問者は、けっこう濃い。
質問ごとメモしていくのは、今まで無かった。

5 P33-

知るものは、知られるものと共に現れ、共に消えるのだ。
その中で、知るものと知られる者が現れては消えていく。
それは時を越えてある。不変、あるいは永遠と言った言葉は当てはまらないのだ。

死において?
生命が残る
生命が別の身体を創造する時、別の知る者が現れるのだ

身体とそれを知るもの、あるいは身体-精神とのあいだには何か関係があるのでしょうか?
そこには成してきたことを成し遂げたかったことの思いを全て記録した原因体、あるいは記憶体と呼べるような何かがある。それはイメージの雲を集めたようなものだ。

分離した存在の感覚は、何なのか?
唯一の実存の反映なのだ
死においては、身体だけが死ぬ。生命、意識、実存は死なない

決して眠ることも覚めることもないものが何なのか、私たちの私と言う感覚が誰のおぼろげな反映なのか見出しなさい

何かを見出そうとするとき、あなたはどうするだろうかマインドとハートにそれを留めておくのだ。

真剣さがそれをもたらす。

すべての恩寵は、あなたの内側からやってくる

持てる限りの時間をそれとともにありなさい
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正確な用語の整理ができているだろうか。
「知るもの・知られるもの」というのは、以前に登場した
「体験者・体験」と同じようなものだろう。

身体-精神とのあいだにある 原因体・記憶体というのは、
唯識wikiにある「種子」だろう。阿頼耶識にあるという。

成してきたことを成し遂げたかったことの思いを全て記録した
という部分について、宇宙全史内で、
「カルマの昇華の際に、別な形質を獲得してしまった。」
「できなかったという、別なカルマを獲得してしまった。」
といった、内容があったように思う。集合魂に戻った際の話だっただろう。
この辺のことを、言っているのではないか。

唯識の話題の中で取り上げ損ねていたようだが、

阿頼耶識と種子のはたらき[編集]

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを薫習(くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ))。このため阿頼耶識を別名蔵識一切種子識とも呼ぶ。阿頼耶識の「阿頼耶」(ālaya)は「蔵」という意味のサンスクリット語である。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子(しゅうじしょうしゅうじ))。

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう))。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98#%E8%AD%98%E3%81%AE%E8%BB%A2%E5%A4%89

この辺のことだろう。
阿頼耶識にある集合魂からのカルマが という話。
子魂が現世から、集合魂へ持ち帰ってきたカルマ・形質 という話。


用語の整理をしたい。
生命が身体を作り、知るものが現れる。
死ぬのは身体だけ
生命、意識、実存は死なない  知るものは、時を超えてある。

マインドと意識は別物なのだろう。
訳注に「body-mind」とある、おそらく別なニュアンスだと思っている。


身体と精神の間にある種子の感覚。
「何かあるな」という感覚が、実存の反映。

実存の反映は、眠るともなく覚めるともない。
これは、「誰か」の反映

よくわかっていない。
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何かを見出そうとするとき、あなたはどうするだろうかマインドとハートそれに留めておくのだ。
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何かを見出そうとするとき、私は座禅を組む。もしくは、汗を流してみる。
この時、何か大きなものに問いかけていたり、もがいてみたりしているのだと感じている。

以前、内丹仙学について調べていた。
そこで出てきた「すべてのモノを内包し、すべての出来事の起こる前・出来事のおこった後である 大いなる虚空」というのがあった。
私は以前に、虚空を目指していたのである。

老子も完全覚醒者である という回答をいただいた。
おそらく、内丹仙学でいう「虚空」も
宇宙全史でいう「実存」も同じような内容だと思っている。

これと繋がっているというのを、マインドとハートに留めておきたい。
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真剣さ というのは、以前にも出てきた用語だろう。
「真剣になっている」とは、どうゆう状態なのか。
誰でも、真剣になったことはあるだろう。
そのニュアンスを思い出したい。
やはり、私の中では脳内のお喋りが止まり、感覚的になっている状態な気がする。呼吸もいつもと違う。
ベラベラと喋り倒している中には、探しているものはないのだと最近思う。
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書き続けてみても、この中には何にもならないのだろう。
しかし、コツコツやる と決めたので、やってみるのだ。


「体験が伴う質感」のことをクオリア という。
「コツ」を掴んだ という経験は、誰しもあるだろう。
「コツ」というのは、クオリアに関するものだと、思っている。
素振りでも何でもいいが、コツを掴む前後は明らか質感が違う。

「コツ」はいくら言葉で説明しても、その中にはない。
大量にやる しかないだろう。その中で、ひらめくのだ。

「私はある」という、体験が伴う質感 コツ。
しかし、これは指針になるだけ。その先がある。

今回は 自分の中を観察する ということを大量にやってみるのだ。

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