【シリーズ第7回:黒人アーティストの人生】🎵ソウル(魂)を感じたい🎵
このシリーズでは、私の大好きな黒人アーティスト、特に、1970年代、80年代に活躍したR&B、SOULミュージシャンを紹介しています。
・・・さて、誰でしょう🎵
ヒント
シンガーソングライターです。
R&Bシンガーです。
ジャズも歌います。
パパは有名なジャズピアニスト、シンガーです。
レコードデビューは6歳、パパとのデュオでした。
パフォーマンスのデビューは11歳でした。
ドラッグ中毒から復活したシンガーです。
生い立ち
1950年2月6日、カリフォルニアで誕生した。
ジャズピアニスト、シンガーのパパは、1950年代にテレビのネットワークショウのホストを務めた、数少ない黒人アーティストだ。
パパは、裕福な人々が暮らすロスアンジェルスのハンコックパークに居を構えた。
彼女は、白人が暮らす豊かなエリアで、多くの人に尊敬されるパパの元で、人種差別を意識することなく育った。
彼女は優しいパパが大好きだった。
けれども、パパのキャリアとレガシーを守ることに一生懸命だったママは、とても厳しかった。
彼女はママのために、いつも良い子でいなければならなかった。
彼女がはじめて家族から離れたのは、東海岸のマサチューセッツにある私立高校へ進学したときだ。
このときはじめて、自分が”黒人”であることを意識した。
1965年、学校の先生からパパの死を告げられた。肺がんだった。
彼女は、大好きなパパに”さようなら”を言うこともできなかった。
パパの死を境に、ママとの関係は悪化する。
彼女は、マサチューセッツ大学に進学し、新しいことに、どんどんチャレンジした。
髪をアフロにした。
黒人民主主義を訴えるBPP(ブラックパンサーパーティ)の活動に参加した。
ボーイフレンドもできた。
彼はヘロインを打っていた。
好奇心旺盛の彼女は、自ら腕を差し出した。
デビュー
ウェイトレスのアルバイトの面接へ行ったときのことだ。
「娘なんでしょ?歌えば?」
と、オーナーに言われたことがきっかけで、彼女はバンドで歌い始めた。
店のオーナーは、パパの名前で集客した。
結果、彼女がR&Bのカヴァーを歌うとブーイングが起こった。
仕方なく、最初はパパの曲だけを歌っていた。
けれども、ある時を境に、彼女はパパの歌を一切うたわなくなった。
彼女はパパの娘ではなく、彼女自身でいたかった。
大学を卒業したときには、すでに歌で仕事を得ていた。
歌っていることを知ったママは、
「やるなら、成功できる方法でやりなさい!」
と言って、彼女をシカゴにあるCurtis Mayfield(カーティス・メイフィールド)のスタジオへ連れて行った。
そこには、作曲家のChuck Jackson(チャック・ジャクソン)とMarvin Yancy(マーヴィン・ヤンシー)が待っていた。
彼らの曲を彼女が歌った。
このときのデモテープが、キャピタル・レコードとのアルバム契約につながった。
あっという間に大ヒット
1975年、ファーストアルバムの”Inseparable(インセパラブル)”がリリースされた。
実は、このアルバムに入っていた”This Will Be”と、”I Can't Say No”は、アリサ・フランクリンに歌ってもらうために作られた曲だった。
けれどもアリサは、この曲を採用しなかった。
彼女が歌った”This Will Be”は大ヒット!
翌年、グラミーで、彼女は最優秀R&B女性ヴォーカルパフォーマンス賞を獲得する。
アリサの8年連続受賞を、彼女がストップする結果になった。
「すごく嬉しかったけれど、”アリサの記録をストップしてしまった・・・どうしよう!”という気持ちの方が強かった」
と話していた彼女だけれど、その勢いは止まらない。
インスタントヒットは1年で終わると言われたけれど、1976年、ファンキーな”Sophisticated Lady”で、2年連続、最優秀R&B女性ヴォーカルパフォーマンス賞を受賞した。
同年、音楽パートナー、作曲家でプロデューサーのMarvinと結婚し、男の子を出産する。
その人物とは・・・
Nat King Cole(ナット・キング・コール)の娘、Natalie Cole(ナタリー・コール)でーす。
まずは、”This Will Be”ですね💛
1977年、3枚目のアルバム”Unpredictable”と4枚目”Thankful”では、プラチナディスクが贈られた。
1年間で2枚のプラチナアルバムを達成した、初の女性アーティストだった。
アルバム”Thankful”に収録されている”Our Love”↓
すべてが上手くいっていた。
1979年までには、ラスヴェガスで、1週間に10万ドル(1千万円)以上、パパの4倍を稼ぐ売れっ子になっていた。
ところが、上手く行き過ぎると、なぜか、それを破壊したくなる。
彼女とMarvinは、コケインにはまった。
ドラッグ💉ドラッグ💉ドラッグ💉
彼女のドラッグ歴は大学の頃からだ。
ドラッグによるトラブルは数えきれない。
飛行機に乗り遅れる、コンサートの時間に現れないことは当たり前。
カナダでは、ヘロイン所持で逮捕されたこともある。
そして夫婦でコケインにはまった。
彼女とMarvinは、自宅でコケインを処理し、販売するまでになったけれど、商品の半分以上は自分たちで吸っていた。
「コケインはヘロインよりもたちが悪かった!」
と彼女は言う。
ドラッグをしていて、息子のロビーから目を離し、溺れかけさせたこともあった。
宿泊しているラスヴェガスのホテルが火災になったとき、逃げ遅れた彼女は、逃げることを試みるよりも、コケインを吸うことを選んだ。
彼女はするべきことが、何もできない状態になった。
1980年以降、彼女のアルバムの売り上げもダウンした。
業界からの信用も失った。
Marvinとも離婚した。
再出発!
1983年、新しいマネージャーDan Cleary(ダン・クリアリー)とともに再出発のチャンスが与えられた。
Natalieは、再生は不可能だとあきらめていた。
けれども、Danは彼女が再び成功すると信じていた。
Danはまず、彼女をクリーンにするために、リハビリ施設に連れて行った。
最初の30日間、彼女は施設の生活が大嫌いで、怒りにふるえていた。
けれども、ドラッグが抜けてくると、彼女の心の闇を施設の人々とシェアできるようになった。
父親の大きな存在、母親からのプレッシャー、彼女が彼女らしくいられないこと、様々なことをシェアした。
半年後、彼女はドラッグから立ち直り、施設を後にした。
グラミー賞再び!
ドラッグも完全に抜け、復帰したものの、業界の信用を取り戻すことは容易なことではなかった。
グラミー賞受賞シンガーだったにも関わらず、オーディションからのスタートだ。
そのオーディションに、レコード会社の担当者が現れないこともあった。
Danと彼女は、決してあきらめなかった。
少しずつ、少しずつ、彼女のレコードセールスも上がってきた。
そして1987年、”I Love For Your Love”がトップ10に入る!
この曲が入ったアルバム”Everlasting”で、Natalieは、グラミーのベスト女性ヴォーカルパフォーマンスにノミネートされる!
復活だ!
そして1991年、13枚目のアルバム、”Unforgettable...with Love”がリリースされた。
収録された”Unforgettable”は、パパ、Nat King Coleとのデュオだ。
映像と録音技術の進化があってこその作品だった。
20年間封印してきたパパの歌を、ついに歌えるときがきた。
ママのためではない。
パパのためでも、パパのレガシーのためでもない。
彼女は人生ではじめて、自分のために歌った。
歌うことができたのだ。
これまで協力的ではなかったママだったけれど、彼女のために、この映像を提供してくれた。
レコーディングにも、はじめて立ち会ってくれた。
1992年、このアルバムはグラミーで、9つの賞にノミネートされ、ベストエンジニアを含む7つの賞を獲得した!!!
その後も、彼女はスタンダードのジャズ、R&Bを含む、11枚のスタジオアルバム、2枚のライヴアルバムをリリースし続けた。
「今思えば、ママは特に間違ったことを言っていたわけじゃなかったのよね。
彼女は正しいことをした。私がママのすること、言うことが嫌いだっただけなのよ」
彼女とママの関係も、ゆっくりだけれど改善されていった。
パパが亡くなってから25年、彼女は自分探しの旅を、ようやく終えることができた。
最後に
2008年、彼女は肝硬変と診断された。
学生時代に打ったヘロインの針が原因だった。
2015年12月31日、腎臓移植後の合併症が原因で亡くなった。
65歳だった。
今から10年くらい前だったと思う。
アトランタのクラブへ行ったとき、その数日前に、彼女が歌っていたと聞いた。
とっても残念。
一度、彼女のパフォーマンスを生で見てみたかった!
代わりに、大好きなNatalie Coleの映像です。
重複する曲もありますが、ライヴ感がお家でもビシビシ感じることができるよ。
ん~・・・たまらん!
最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートで、本を読みまくり、新たな情報を発信していきまーす!