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『咲く花に寄す』 その15

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 あの戦争が始まって、一年ほど経った頃、ある青年をうちで預かることになったんです。
 神職志望の青年いうことで、伊勢の学校に入れるまで、下働きでもなんでもするさかい、うちで修行させてやって欲しい……いうて、私の父がお世話になってたある人物からお願いされたらしいんですわ。
 なんや裏に事情がありそうなことは、私らも薄々勘付いてはいたんですが、そこは気づかんふりをして、言葉通りの見習いさんや思て接してました。
 あの頃はまだ、この場所に仏堂が残ってましてね、仏さんは他所に移してしもてますから、荒れてしもて物置みたいになってたのを、あの人が自分で綺麗に掃除して、建物も修繕してね、ひっそりと住むようにならはったんです。細面の顔に、いっつも穏やかな微笑みを浮かべてる人でしたさかい、あの仏堂にぽつねんと座ってはると、あの人自身が仏さんそのものみたいでしたなあ。
 朝の早いうちから、境内の掃除から神さんのお世話まで、ほんまよう働いてくれはりましたけれど、なんせこんな小さい神社ですさかい、昼前にはやることものうなってしもてね、手の空いた時には、喜んで近くの田畑の手伝いなんかもしてはりました。男手の少ないご時世でしたさかい、どこに行っても重宝されましてね、それがあの人には嬉しかったみたいです。
 結局、逃亡中の身の上やった訳ですが、悲壮感みたいなものは全くなかったですし、身を隠そうとする素振りも全く見せはりませんでした。すべての成り行きを、仏さんにお任せしてる、みたいな雰囲気ありましたな。
 身いひとつで、ほとんど物を持ってなかったあの人が、唯一大切にしてはったのが、彫刻刀でした。
 雨の日や、何もすることがない昼下がりには、ずっとお堂にこもっては、熱心に何やら彫ってはりました。
 私も、木彫りの鹿をいただいたことがあるんですが、今にも動き出しそうな見事な出来ばえでねえ、今でも大切に飾らせてもうてるんです。
 ある冬のことです。近くのおばあさんが、毎日あんまり真剣にお参りに来はるもんやから、事情を聞いてみたら、連れ合いのおじいさんが病に倒れて、それはひどう苦しんでる言うて、さめざめと泣き出さはったんです。
 気の毒に思ったあの人は、せめてもの慰めに言うて、手彫りのお地蔵さんを、そのおばあさんに授けはったんです。そしたらどうでしょう、医者も見放してたおじいさんの病が、ほどなく治ってしもたんですわ。
 おばあさんの喜びようはそれは大そうで、お礼を包んで渡そうとしたみたいですが、あの人は一切受け取りませんでした。ただ、ちょっと照れたような微笑みを浮かべて、世の中に溢れる苦しみのほんのひとつだけでも解消できたことを、喜んではるようでした。
 口止めはされたんですが、それでも口コミで噂は広がって、あの人のお地蔵さまを欲しがる人はぽつぽつ訪れるようになって、その度に丹精を込めて、一体一体彫ってはりました。本当にご利益があるのかどうかは分かりません。ただ、あのなんとも言えん愛らしいお顔を拝んでるとね、日頃の悩みや苦しみがふっと楽になって、気持ちが明るくなるんですわ。うちにも一体お祀りしてますさかい、それはよう分かるんです。

 さて、あの人がうちに来られたのと、おそらく同じ頃からやと思うんですが、あるお嬢さんが、うちの神さんに熱心にお参りに来られるようにならはったんです。
 あれは、在所の人ではのうて、ちょっと離れた場所から来てはったんやと思いますが、それは綺麗な人でねえ、私なんかも岡惚れしてた口ですわ。
 忘れもしません、毎月二十六日には決まって、雨が降っても嵐が来てても、彼女はこちらにお参りされて、長い間熱心に祈ってらっしゃいました。
 京都にも奈良にも、もっと霊験あらたかな神社はぎょうさんあるでしょうに、なんでわざわざこんな小さい神社にお参りされてたんかはよう分かりません。何をお祈りされてたのかも、決して話そうとはされませんでした。
 そんなお嬢さんのことを、あの人もずっと気にされてたようで、特に念入りにお地蔵さまを彫り上げて、ちょっとでもお心に添えますように言うて、お嬢さんに進呈しはったんです。
 お嬢さんは大そう感動されてね、まったく女性というものは肚が据わってるもんやと感心しますが、その場で、観音像の制作を依頼しはったんです。どうしても叶えたい願い事があるので、その証(しるし)となるべき観音さまを彫り上げてもらいたい……言うて。
 初めは戸惑ってたあの人も、お嬢さんの気持ちに圧されて、やがて決意されて、それからはもう、生命の全てを懸けて、彫像に取り組まれました。
 木材は、梅の木ぃが使われてるんです。
 ちょうどあの頃、軍隊に供出するために、広大な梅林が伐採されてねえ、枝を切ってまとめて置かれてた中から、これという物を選んで、もらい受けてきはったんです。梅林の持ち主も、武器になるくらいやったら観音さんにしてもうた方が、樹ぃも喜びますわ……言うて、心よう譲ってくれたそうです。
 すぐには、彫り始めませんでした。だいぶ長い間、逢谷の集落を歩いたり、台に載せた梅の木に向き合ってひたすら座り続けたりと、かなり悩んではるように見えました。彫るべき仏さんが観えるまで待ってるんやと、あの人は言うてました。
 彫り始めてからは、もう一心不乱でした。鬼気迫る、言う言葉の方がええかも知れません。日も夜も分かたず、食事をとる間も惜しんで、あの人は彫刻刀をふるってました。蝋燭の灯の中、それこそ鬼神が乗り移ったように一心に、観音像に向き合い続けるあの人の後ろ姿、いまだに眼に焼きついてます。
 憲兵があの人を捕らえに来たのは、戦争が終わる年の3月のことでした。まず家を訪れた憲兵に、母が応対してる隙に、こっそり裏口から抜け出して知らせに行ったんですが、不思議なことに、仏堂の中は人が暮らした形跡もないくらいに綺麗に掃除されて、もぬけの殻でした。彫りかけの観音像も彫刻刀も、なくなっていました。
 あの人は、名のある師匠のもとで修行をしていた仏師やったんですな。徴兵を逃れて、うちに潜んではった。
 なんで憲兵にばれたのかは分かりませんが、誰かが告げ口したんか、おそらくは、優れた仏像を彫る青年がこの神社に住んでるっていう噂が伝わってしもたんでしょう。
 うちは、あの人の素性は知らんかったいうことで、厳重な取り調べと警告は受けたものの、お咎めはなしで済みました。
 お嬢さんには、私からそのことを伝えました。驚いた表情をされましたが、すぐに平素のお顔に戻って、「承知致しました」と一礼されました。なんとのう、その時に、大切な決断をされたようにお見受けしました。
 やがて、戦争も終わって、しばらくはお嬢さんも、二十六日のお参りに来られてたようですが、いつの頃からかその姿を見ることもなくなりました。
 戻ってきた穏やかな日常が、つらかったあれやこれやを包み込んでくれるようでしたが、つい数年前までの美しい梅の里の風景は、二度と戻っては来ないことを、誰もが感じておりました。


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