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『咲く花に寄す』 その11

     8 承前

 はっと覚醒して、息を吸い込む。自分がどこに居て、どういう状況に在るのか、全くブランクになっている。
 横臥したまま、ゆっくり息をつくうちに、自我がはっきりして、ここは自室であり、就寝中であったことも脳裏に染み込んでくる。
 覚醒の間際まで感じていた、圧倒的な慈愛の余波がまだ色濃く残っていて、嗚咽していた自分の胸が震える感動もいまだ残留して、両眼からじんわり涙が溢れるのを感じている。
 凍てつく大地の果て……俘虜収容所に居た感覚があまりに生々しく、生命の危険のない場所で、暖かい布団にくるまっている今の状況が、にわかに信じがたい。もしかしたらこっちが夢ではないのかと、少し疑ってしまう。
 枕元の時計を見ると4時44分と中途半端な時間であるが、もう起きてしまうことにする。昨夜、寝付けたのは深夜であり、少し寝不足ではあるが、差し障りがある仕事がある訳でもなく、せっかく得たこの時間を有効活用することにする。
 左横でぐっすりと眠っている美佳を起こさないように、ゆっくりと寝床を抜け出て、きちんと布団をかけ直してやる。
 初めは子供たちと一緒に八畳の間に布団を並べて寝ていたのだが、夜半にホームシックが出て「おかあさん」とぐずり出してしまい、清恵さんでも手に負えそうになかったので、自分が引き受けた。半纏にくるんでおんぶして、しばらく蔵の敷地にある梅林をブラブラして、落ち着いたのを見計って布団に寝かせて、お話しを聞かせているうちにまた寝入ってくれた。
 昼間は気丈にしていても、見知らぬ場所に一人で残された不安はやはり大きいのだろう。はよ観音さま見つけてお母さんとこ帰ろな……と、横顔を見せてすやすやと眠る美佳の頭を撫でてやる。
 丹前を羽織って石油ストーブを点け、こたつにもぐり込む。冷え切っている湯飲みのお茶を一気に飲み干してから、子供に良くないかなと思いつつも、一本だけ容赦してもらうことにして、ハイライトに火を点ける。
 紫煙をくゆらせながら、先ほどの夢を反芻する。
 あの日のことは、あまりはっきりと覚えていない。
 集団から「批判」された後、地面に崩れ落ちたまま、前後不覚におちいった所までは確かなのだが、自力で立ち上がったのか、誰かが助け起こしてくれたのか、気づけばバラック内の寝床で薄汚れた毛布を被っていた。
 あの日は結局夕食を取り逃がしたのだが、自分と同じく「反動」扱いされている岡山出身の男が、こっそり黒パンを取り置きしてくれていた。その後、特に何かが変わった訳ではなかったが、「必ず帰れる」という希望は確固たるものになり、苦悶の日々を耐え抜く気力はいつも肚の底から湧き上がってきた。
 あの時遭遇した少女については、混濁する意識の中で、幻影を見たんだろうと思っていた。しかし、夢の中で追体験した記憶の中の少女は、鮮やかな存在感を有していて、何より彼女が放射していた慈愛の波動は、今の自分の情動も揺り動かすほどの光に満ちていた。
 そうや……あの子は、何かを伝えようとしていた……
 金色の淡い光の中で優しく微笑んでいた、少女の顔を想起する。
 それが何だったのかはもう分からない。でも、あの子は確かに、自分に何か大切なことを伝えようとしていた……
 ふと気づくと、考えにふけるあまり、煙草の灰をテーブルに落としてしまっており、布巾を取りに立ったついでに、台所でお湯を沸かしてコーヒーを淹れる。彼がドリップするコーヒーはかなりのクオリティであり、一時は喫茶店を出そうかと本気で考えたほどだ。
 部屋に戻ってコーヒーを味わっていた彼は、ふと思い立って、本棚から一冊の古びた本を取り出す。「逢谷絶勝」というタイトルが読めるその本の裏表紙に、角の丸まった手札サイズの黒白写真が挟んである。
 写真を手にとって、眺める。お下げを両肩に垂らした女学生が、ちょっと緊張した面持ちで微笑んでいる。
 美人家系なのか、たおやかな容姿にそぐわぬ強い意志を感じさせる、黒目がちの美しい瞳が、美佳にも、先日訪れた美佳の母親にもよく似ているなと思う。
 遥か時の彼方に確かに存在した、美しくも儚い、夢幻のようなあの光景を、脳裏に描き出す。山の端一面を雪のように白く染める、春霞に滲む満開の梅林の中で、にっこりと微笑んでいた、あの人の姿……


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