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秋月夜(11)

     六

 この家で暮らしていると、時折、静枝を訪ねての来客がある。関係の深い浅いに関わらず、皆等しく静枝に対する敬愛を持ってくれており、他界したことを告げると心から残念がり、線香を手向けてくれる。この日、不意に迎えた客も、そんな一人だった。
 静枝の初盆供養を済ませて、もう十日以上になる。大阪の冨男伯父家族はじめ、親戚縁者が集まり、和やかに故人を偲ぶことができたが、東京の母は「急な仕事が入った」との理由で参加しなかった。まだまだ現役で、忙しくしているのは知っているが、お盆に「急な仕事」というのも妙な話であり、もしかしたら、この家で料理屋を開くことに対して、少しわだかまりがあるのかも知れない。ほぼ独断で優希を引き取ったことも、口には出さないが心良く思っていないようであり、なかなか静枝みたいに積極的に“孫”との交流を持とうとしてくれない。実母との関わりはなかなか難しいなあと、いつも美佳は嘆息してしまう。
「おはよう」いつものようにのんびりと、健吾が玄関から入ってくる。今日あたりから垣根作りの作業に入ってくれることになっている。
「どしたん、ボ〜ッとして」
「失礼な。いろいろ戦略考えてたのよ」
「そら失礼。今日は優希は?」
「お弁当持って、ふくちゃんと川遊び行ってる。いっちゃんが見てくれてるのよ」
「ええ友達できて良かったよなあ」
「ほんとなのよ。いっちゃんもね、学生時代、喫茶店のバイトでチーフまで上り詰めて、バリバリやってたんだって。心強いったらありゃしない」
「佐伯母娘さまさまやな」優しげに眼を細めて、健吾は上がり框に腰掛ける。
「開店準備は順調?」
「う〜ん、なんだけど、味噌がねえ……」
「味噌?」
「ええ、お味噌。おばあちゃんの手作りのお味噌、店の売りにするつもりなんだけど、あたし作り方習ってなくってね、今年仕込んだ分がなくなるとやばいのよ」
「そうなんや。ってか、習ってなかったん?」
「何度も誘ってくれたんだけど、ちょうど仕込みが忙しい時期に重なってててね、来年来年ってつい……。ねえ、あなた知ってたりしない?」
「なんでおれが」
「いや、なんでもできるからお味噌くらい作れるかなあって思って」
「だいたいおれ、静枝さんに二回しか逢うたことないやん」
「そうよねえ。身近なとこからのサプライズはないよねえ」
「ないない。まあ、誰かは習ってそうやけどなあ」
「そうよね。地道に探してみるわ。あと、ベランダがね、欲しいなあって思って」そう言って、くつろいでいる奥の間から外に視線をやる。
「ほら、茅葺きって軒先が長くって、中から眺めると案外見晴らし悪いじゃない? ちょうど二人座れるくらいの小さいベランダがあったら良いなあって思うのよ」
「うん、良さそうやな」
「あんまベランダベランダしてなくて、古民家とも調和する良い感じのフォルムのやつ」
「うん、良さそうやけどめちゃ難しそうやなそれ」
「今度、カウンターの工事入ってもらう時に、一緒に入れ込めないか聞いてみようと思って」
「あ、大沢工務店やろ? ちょうど今から頼んでた木材取りに行くから、聞いてきたろか?」
「ほんとに? お願い。助かる」
「ほなさっそく」
 健吾を見送ってから、縁側に腰掛けてまたボ〜ッとしてしまう。
 自分の意志通りとはいえ、開店に向けて物事がどんどん動いて行くことに、軽い戸惑いを感じている。恣意的にあれやこれやを作り変えることで、祖母が保ってきた大切なこの空間を、台無しにしてしまうのでないか……そんな恐怖感が頭を離れない。
『神様、お願いします! もしあたしが間違ってないのなら、何かサインをお示し下さい』眼を閉じて、そんな祈りを胸中でつぶやいてみる。胸の前で組み合わせた両手が白くなるくらい、力を込めて祈念する。
 思いに没入していたので、気づくのが遅くなる。軽快な二輪のエンジン音が坂道を上って近づき、門の前で停止する。
「静枝さんはいらっしゃるかな?」
 ジェット式のヘルメットを小脇に抱えたその男性は、硬質の端正な貌に笑顔を刻んで、そう美佳に問いかける。

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