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秋月夜 (一)

   第三部 秋月夜

     一

 鮮やかなコバルトブルーの蒼穹が広がっている。樹々の濃緑の奥には、沁みるように白い入道雲の塊が盛り上がり、見る間にもくもくとその嵩を増し続ける。
 洗濯物を干す手をとめて、眼下に広がる山里の風景を眺める。田園を伝ってきた旋風が、びゅうと音を立てて背後の山へ吹き抜けてゆく。乱れた艶やかなロングの黒髪を、少し頭を振って元に戻す。夏の猛暑はこの山里でも容赦はないが、この時間だとまだ暑さよりも爽快感の方が優っている。
 全身にお日様のフォースを感じながら、大きく手を伸ばして深呼吸する。Tシャツの裾が上がって、おへそが見えてしまうが気にしない。
 時間に追われていた都会での生活が信じられないくらい、此処では時がゆったりと過ぎてゆく。無理に折りたたむ様にしてやり過ごしていた日々が、一瞬一瞬の貴重な感覚、経験の連なりとして、感じられるようになっている。
 背後でガサガサと音がして、小花が愛らしい花弁を連ねる裏庭の草むらから、何かが飛び出してくる。
「じゃ〜ん!」そう言って、ケタケタ笑いながら身体に飛びついてきた優希を、ジーンズの腰を振ってフリフリする。
「なあかあちゃん、びっくりした?」
「別に〜。知ってたもん、あんたそこにおんの」
「なあんや、しってたんか。バレバレか」
「バレバレやわ」そう言って、優希の可愛い小さな鼻をつまんでみせる。もうどこかを走り回ってきたのか、汗でまあるいおでこに栗色の髪がへばりついており、腰に挟んでいたタオルで顔を拭ってやる。
「なあかあちゃん、したの川んとこいってきていい?」
「良いけど。気をつけるのよ。深いとこ行っちゃダメよ」
「わかってる〜」と、言い終わらないうちに、ちっちゃなわんぱく少女はてけてけと駆け出している。
「お昼のバス来たら帰ってくるのよ! バスが聞こえないくらい遠くへ行っちゃダメだからね!」
 数時間に一本ほどの定期バスは、ラッパスピーカーからのどかな音楽を鳴らして走行しており、地元民の良い時報替わりになっている。ちょうどお昼前に前を通る便があり、「お遊び終了」の合図にするよう、よく言い含めてあるのだが、夢中になると聞き逃して、帰ってこないこともままある。
 まったく、此処へ来てからの優希は、「水とキュウリを得たカッパ」のごとく、元気に満ち溢れている。朝早くから野原を駆け回り、たっぷり食べて、電池が切れるように寝てしまったかと思うと、いつの間にか起き出してまた駆け回っている。
 自分の目の届かない場所で、一人で遊ばせることに、最初は不安もあったのだが、すっかり慣れてしまった。自分の幼時を思い返しても、親に隠れてこっそり探検に出かけたものだし、優希も奔放に見えて、案外「そこ外してはダメ」な境界はしっかりわきまえているようであり、本当に危険な目にあったことも、人様に大きな迷惑をかけたことも一度もない。
 苦笑しながら優希を見送ると、ふっと息をついて、洗濯物の残りを干してしまう。やるべきことはたくさんあるけれど、とりあえず荷ほどきをやっつけてしまおうと、なんとなく考える。
 伏見のアパートから此処花城に引っ越してきて、十日ほどになる。
 新しい日常に馴染みつつあるが、いまだに、毎朝会社に行かなくて良い、優希を保育園に預けなくて良いこの生活を、一場の夢幻のように感じることがある。どうせ夢なら、おばあちゃんも一緒に居てくれたら良いのに……と、美佳はぼんやりと思う。
 眠るように……ほんとうに眠るように、祖母の静枝が息を引き取ってから、もう四ヶ月が経つ。
 いつまでもずっと変わらず、祖母はこの家でにこやかに暮らしているものだという、確固とした思い込みがあったので、実はいまだに現実を受け入れられていない。「おばあちゃんのいる家に帰りたい!」という希求が突き上げ、駄々っ子のように泣きじゃくりたくなる。
 あの日……。桜が泣きたいくらいに美しかったあの日……
 桜堤での、穏やかで宝物みたいなひと時。遅れて合流した医師の石黒が異変を察知した時には、既に静枝の息はなかった。
 心が痺れたようになっていて、細部はあまり思い出せない。健吾が静枝を背負って、家まで運んでくれた。茜色に満ちた帰り路の情景。冷たい蛍光灯の下、あちこちに電話をする自分。機械的に身体を動かして、大量のおむすびを握る自分。そして、北枕にした白い布団に横たわる、美しい祖母の横顔。穏やかな微笑みを浮かべたその貌は、生きているとしか思えないほど、透明な安らぎと清らかさに満ちていた。
 徐々に親戚が集まり、葬儀の準備が整ってゆく。大阪に居る冨男伯父が喪主を勤め、自分は裏方に回って事務的に雑事をこなした。
 葬儀が終わるまでの間、健吾も、どこからか用立ててきた上下不揃いの黒い服を着て、そっと目立たないように裏方からサポートしてくれた。京阪出町柳までの送迎、買い出し、式の準備と後片付けから、子守に至るまで。後で聞いた話では、しばらく石黒医師の所に世話になっていた様である。
 一つ一つの法事をこなし、親戚も各々帰ってゆき、リミットぎりぎりまで取った美佳の忌引きもラスト一日になった夜、健吾が辞去の挨拶に来てくれた。言葉少なに互いを労わり、立ち去りかけた健吾はふと足を止めて、「ごめん」とつぶやいて、長い両腕を伸ばして、美佳をぎゅっと抱き締めてくれた。彼が、声を押し殺して泣いているのに気づき、それまで雑事に没頭する事で忘れようとしてきた圧倒的な悲しみが胸裡に蘇り、美佳は子供みたいに大声を上げて泣いた。
 そのまま二人で数時間泣き続け、その後は飲めない健吾を酒宴に付き合わせて、朝方まで祖母の想い出を語り合った。翌朝、ちゃんと早起きした優希に起こされた二人は、涙と酒でパンパンに腫れ上がった互いの顔を笑い合った。

 花城のこの家で、料理屋を開くという夢は、諦めざるを得なかった。そもそも、祖母のサポートを前提に思い描いていた夢であり、まだまだ自分には人様を感動させ得る料理を作る腕前も、店を経営してゆく手腕もあるとは思えなかったし、何より、夢を決意した直後のこの成り行きは、運命から“否”をはっきり突き付けられたとしか思えなかった。

 日常に回帰し、日々の暮らしの中に、悲しみも夢も恋もすっかり紛れてしまった頃、大阪の冨男伯父から連絡が届いた。「静枝学校」の卒業生たちが、花城で静枝を偲ぶ為に集まりたいそうで、美佳に接待を頼めないかという。正直、気は乗らなかったが、いつまでも祖母を慕ってくれる皆の思いを無下にすることもできず、引き受けることにした。
 GW明けの日曜日、「偲ぶ会」は開催された。美佳は前日から泊まり込みで、家の清掃やら料理の仕込みやら、忙しく立ち働いた。取りまとめ役の大木という男性からは、食事はこちらでやるからどうかお構いなくと、事前に断わりはあったのだが、美佳の方から「ぜひやりたい」と申し出たのだ。他者の為にメニューを考えることは心楽しく、お店をやるってこんな感じかしらと、諦めた夢に思いを馳せたりした。
 約束のお昼前よりかなり早い時間から、参加者はポツポツと集まり始めた。穏やかでシャイな人が多く、美佳も簡単に挨拶をするだけであまり気は使わず、皆もそれぞれの想いをそれぞれのやり方で、ゆっくり噛み締めているようだった。
 三十人ほどの参加者が揃い、二間を解放して設えた席についてもらう。大木の簡単な挨拶と、静枝に捧げる黙祷の後、食事会が始まる。
 料理は特別なものは何もせず、静枝が得意としていたメニューをできるだけ忠実に再現した。それぞれの皿に五品ほどを載せた他、取り分けられるよう大皿に盛った品も何点か。たっぷり用意した竈焚きのご飯に静枝お手製の味噌で作った味噌汁。調理に集中していると、雑念が消え、久しぶりに祖母のいない喪失感を忘れることができた。
 初めは、にこやかに談笑しながら食事していた参加者たちだったが、一口噛みしめるごとに言葉少なになり、あちこちで嗚咽の声が響き始めると、しまいには皆が声を上げて泣き出してしまう。性別も年代も違う良い大人たちが泣きじゃくる様子は、どこか滑稽でありながらも、胸を震わせるものがあり、別室に控えていた美佳も、もらい泣きしてしまう。皆に取り囲まれるように、ほぼ中央に置かれた静枝の写真が、優しく微笑んでいる。

「あれは、まさに静枝さんの料理でした」後で逢うことになった取りまとめ役の大木が、そう語ってくれた。「もう二度と食べられへんと思ってた静枝さんの料理が目の前に出てきて、ぼくらみんなたまらんくなってしもてね……」恰幅の良い大木は、黒縁メガネの奥のつぶらな瞳をしばしばさせている。
 偲ぶ会を終えた少し後、大木からぜひお願いしたい儀があると連絡があったのだ。「美佳さん、あの家で料理屋を開きたいというあなたの夢、ぜひ実現させてもらえませんか」と、開口一番大木はそう言った。
 静枝さんの料理にぼくらが生きる力を与えられたように、それを受け継ぐあなたの料理で、世の中の人を元気にしてあげて欲しい。ぼくらの魂の故郷であるあの場所を、できることなら あのまま残して欲しい……大木は熱く語った。それまでの雑談の中で、一度は料理屋を開く決意をしたこと、祖母の他界でその夢が頓挫したことを、大木には告げてあった。
「これ、静枝ファウンディングです」と、別れ際に大木は茶封筒を美佳に手渡した。「ぼくらの夢を勝手に語っただけですから、どうか気にせんといて下さい。ファウンディングですから、返す必要はありません。もしお店を開かなくても、あの家の修繕なんかに役立ててもらえたら嬉しいです」
 封筒には、なんと三百万円もの大金が預金された通帳と印鑑に、ファウンディングに賛同した人々のリストと、彼らから美佳に宛てたメッセージが収められていた。「料理最高に美味しかったです」「また食べたい!」「静枝かあさんの料理を受け継いでくれてありがとう」それぞれの思いが込められた自筆のメッセージを読みながら、美佳はポロポロ泣いた。料理屋をやろう! 美味しい料理をいっぱい作ろう! 泣きながら、美佳は決意していた。祖母の想いはしっかりと自分の胸に息づいていることを、はっきりと感じていた。



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