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秋月夜(二)

     一(承前)

 心が決まってからは早かった。
 まず、家の相続権を持つ、冨男伯父と母に話を通した。冨男伯父は、すでに大阪に仕事と拠点を持っているので、美佳ちゃんが住んでちゃんと管理してくれるなら、自分も嬉しいし、好きに使ってくれて良いと言ってくれた。東京の母は「あなたがしたいんならそうしなさい」と、素っ気ないもの言いだったが、後で知った所によると、土地の相場価格や支払うべき金額を調べて、冨男伯父と話をしてくれたようだった。
 会社に7月末で退社したい旨を告げ、開店の為の申請、事務手続きを進めた。
 知り合いの小さなデザイン会社に依頼し、茅葺き民家の良さを最大限活かす形での店舗案をいくつか出してもらい、自分の要望も合わせてから最終決定した。大きい施工にはならないので、ファウンディングに頼らずとも、自分の預金でなんとかなりそうだった。

 一方、健吾も、花城の農家、よしおさんに弟子入りすることが決まり、一足先に移り住んで来ている。ちょうど良いので、自分たちが行くまでの間、うちの離れに住んでもらって、母屋にも時折風を通してもらっていた。
 今年は放置するしかないと思っていた、祖母の田んぼと畑も、よしおさんの指導を受けながら、健吾が面倒を見てくれている。よしおさんの話によると、熱心だし筋が良いと言うことだった。

 職場を円満退職し、親しい人たちにお別れをし、引越しも無事に完了した。
 店のオープンは二ヶ月後、十月の初旬を予定している。
 すでに依頼はしてある工務店への対応や、メニュー、食器類、内装の準備のほか、祖母の初盆などの法事もあり、やるべき事は山積しているものの、とりあえずはゆっくり、この山里の空気に心身をなじませることに専念している。祖母の守る家に「里帰り」していた頃と今では、見える景色が全く違う。本当に自分の細腕一つで切り盛りして行けるのか、不安も大きい。
 
 縁側を開け放った離れの室内、荷物の整理がやっとひと段落し、美佳はふっと息をつく。
 かなり断捨離したつもりではあるが、ほぼ十年暮らした生活の垢はかなりのもので、引越しの荷物もそれなりの量になってしまった。
 母屋の方は、祖母の居間だった一室だけプライベートスペースを残して、あとは客間として使用するつもりであり、美佳たちの主な生活は離れですることになる。こちらだけでも、和室三間と簡単な洗面所があり、母子二人で暮らすには十分な広さがある。しばらく間貸ししていた健吾は、近くの空き家を月五千円という破格で借りられることになり、すでに移った後である。
 遠くで、野太いエンジン音が響くのを、なんとなく感じている。若狭に抜けるまでに、走り屋たちが大好物な峠道がいくつか存在し、走りに特化したいかつい車が時折集落を通り過ぎることがあり、きっとその類だろうと思う。
 エンジン音は、何度か止まりながらも行き過ぎる事はなく、次第に大きくなってゆき、やがて下の角を曲がって、うちへ続く坂道を上ってくるのが分かる。
 サンダルを突っかけて縁側から飛び出る。嫌な胸騒ぎを覚える。移転の知らせは各所に送付済みだが、連絡なしに訪れる不躾さにも、威圧的なエギゾースト音にも、全く心当たりはなかった。
 小走りで門を出ると、鼻面に三叉形のエンブレムをつけた白いスポーツカーが、まさに最後のカーブを曲がって現れる所だった。車は門のすぐ前まで鼻面を寄せると、「ブオン」とひとふかししてからエンジンが止まる。
「しゃあないなあ、もうっ!」苛立たしげにそう言いながら、右ハンドルの運転席から男が現れ、美佳には見向きもしないで長く伸びたフロントの下部を覗き込む。
「なんやねん、あのほっそい曲がりくねった道! 底擦ってもうたやんけ! こんなトコや聞いてたら、絶対きいひんかったのによう。腹たつわあ」しきりに舌打ちしながら、男はぼやいている。サングラスをしているので顔ははっきり見えないが、たるんだ腹と目元に寄った皺から、おそらく五十代と思しい。白い長袖シャツの大きくはだけた胸元から、金のネックレスがのぞいている。
 ナビ席のドアが開き、空調の冷気とむせかえるようなタバコの臭気とともに、ほっそりした女性が降り立つ。鼻を突くきつい香水に、黒いスカートと、黒の縁取りがついた長袖のブラウス。自分の交流関係者とは全く異質な空気を、二人は発散している。
「えっらいとこやなあ。なんぎしたわ」
 窓にスモークが貼られた車内の薄暗さに目が慣れていたのか、降り注ぐ陽光がさぞ嫌そうに、女性は顔をしかめて手でひさしを作る。
「あ、おかあさん……。麗奈ちゃんのお母さんでらっしゃいますか?」
 必死で記憶を反芻していた美佳は、すぐ思い当たる。小杉利恵。麗奈の母親。麗奈が亡くなって、優希を引き取る際、一度だけ会いに行ったことがある。
「あんたにお母さん言われる筋合いはないけどな」
 にべもなく、女性は冷めた視線を美佳に向ける。確か大阪の場末でスナックを経営しているはずだが、店が終わってそのまま来たのか、夜用の濃いメイクが、山里ののどかな風景にはそぐわない。
「あ、えっと、遠いところわざわざお越しいただいて恐縮です。どうぞ、お上がり下さい。引っ越したばかりでまだ散らかってますけれど……」用件は何なのかあれこれ詮索しつつ、美佳はぎこちなく笑顔を作る。
「無理せんでええで。こっちもベタベタ仲ようするつもりはないしな」
 昨夜のアルコールに車酔いが重なり、メイクでも隠せないほど不健康で蒼白な、険のある貌を、おかあさん……小杉利恵はピクッと引き攣らせる。呼気から微かに、腐食した金属のような嫌な臭気を感じる。麗奈に聞いていた話からどうしても好印象は抱けず、それが表情に出ないように気をつける。
「あの子は? ゆき言うたか、麗奈の子は?」
「今ちょっと、出てますけれど、優希が何か?」
「何か? ってか、ふふっ」美佳に対する敵愾心を隠すつもりもないようで、利恵は片頬を歪めて冷たい笑みを作ってみせる。
「今日はあの子を引き取りに来たんや」
「えっ?」
「あの子を、返してもらいに来た。これからはうちが、あの子と暮らすさかい」

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