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『咲く花に寄す』 その16

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 終戦から5年以上が経った、そうですな、冬も終わりに近いちょうど今頃のことでしたな。不意にうちを訪う人がいて、朝も早よから誰やろ思て玄関に出てみたら、あの人やったんです。髪は伸びて、よう日焼けして、すっかり様変わりしてはりましたが、スッと細めた優しい瞳は間違いなくあの人のもんでした。
 ようやっと観音さまできたさかい、あのお嬢さんに渡して欲しいて、背中に背負ってた包みを丁寧に下ろすと、あの人は笑顔で言いました。
 お嬢さんはもう長い間来てはらへんし、連絡先も分からん……言うても、大丈夫、必ず来られますから……言うてにっこり笑て、引き止めるのも聞かずに、風のように去って行きはりました。
 なんとのう、私にも予感があったんかも知れませんな。ちょうどええ機会でしたさかい、久しぶりに仏堂を開けて、積もり積もった埃をはろて掃除してから、祭壇を作って、丁寧に包んであった布を解いて、観音さまをお祭りしたんです。
 ほなどうですやろ、まさにその日に、お嬢さんがお参りに来られたんです! 一仕事して、仏堂から出てきた途端に目にしたお嬢さんのお姿は、あんまり麗しゅうて、観音さまがそのまま出てきはったんかと思いました。
 和服を召して、すっかり大人の女性になられたお嬢さんに、観音さまの到来を伝えたら、驚いて、泣き笑いみたいな表情をされました。
 早速、仏堂にお招きして、対面していただきました。
 お嬢さんは、泣いてらしたようです。仏堂にそっと端坐して、この観音さまに向き合って、ずいぶん長い間、一人で涙を流してらっしゃいました。

 参拝の後、お嬢さんの方から、私にはもうこの観音さまをお祀りする資格がないから、このままこの神社で引き取って頂けないでしょうかと、申し出があったんです。
 後日、丁寧な御礼の言葉と一緒に、過分なお金が送られてきました。辞退しようにも、連絡先も秘されてましてな、父とも相談して、そのお金でお厨子を作って、うちでお祀りすることにしたんです。
 どこかのお寺さんに譲ろうにも、定まった観音さまのお姿やないし、ましてや好事家の手に渡るのは避けたい。いずれ、相応しい落ち着き先が見つかることもあるやろから、それまでは、この観音さまの由緒をよう分かってる、私どもがお預かりするのが一番ええと思たんです。
 特に秘密にしてる訳ではないんですが、大っぴらに宣伝することでもないですし、私どもの身内だけでお祀りしてきました。毎年、これから梅の花が咲くおめでたい立春の日に、開帳してお祀りさしてもうてるんです……

 訥々と語り続ける荷田氏の言葉を聞きながら、彼はずっと梅観音を見つめている。
 供えられた紅白の梅の花から、ほのかな香りが伝わってくる。悲しみをたたえていた観音像のお顔が、窓から入り込むオレンジの陽光にほんわり照らされて、優しい微笑みにゆるんだように見える。
 あくまでも美しいそのお顔は、どことなく、あの人の面影を宿しているようにも思える。精魂を込めてこの像を彫り上げた、若き仏師の秘めたる想いが、透けて見える気がする。
 毎月二十六日に、決まってこの地を訪れていたという女性……あの人が、何を祈願していたのか、彼には察することができる。
 二十六日は彼の誕生日であり、逢谷駅から出征して行った日でもあった。
 じんわりと瞳に滲んだ涙を拭う。にっこりと微笑んで、大人しく話を聞いていた子供たちに声をかける。
「さあ、お参りしとこか」
 観音さまの御前に、美佳を中心に三人並んで、一心に祈りを捧げる子供たちを、慈しみを込めた視線で見守る。
 どうか、この子たちの祈りが成就しますように。どうか、この子たちの未来が輝くものでありますように……彼も手を合わせて、美しき梅花の精霊に祈りを捧げる……

 かなり日が長くなったはいえ、5時前になるともう薄暗い。電灯が点り始めた参道を、砂利を踏む音を立てながら三人並んでゆっくり歩いている。
「なあ、じいちゃん」
 右前を歩いている健吾が、前を見たまま声をかける。
「なんや?」
「あの観音さまのこと、ほとんどよそには話してへん言うてはったけど、なんで美佳ちゃんのおばあさんは知ってはったんかな?」
「だから、あの観音さまを作らせたお嬢さんが、美佳ちゃんのおばあさんやったってことやろ」
「ああ、そっか。それで分かったわ」
「うん」
「なあ、じいちゃん」
「なんや?」
「じいちゃんは、美佳ちゃんのおばあさんと知り合いなんか?」
「……なんでそう思うねん?」
「ん? なんとなく」
「あはは。お前は聡い子やな」
 はっきり答えることはせず、少年の頭をがしがしと撫でる。
「美佳ちゃん、良かったなあ。観音さま見つかって、ちゃんとお参りもできて」
 左横で彼と手を繋いで歩いている美佳に声をかけると、少し俯いたままこくりとうなずく。
「美佳ちゃん? 何か気になることでもあるんか?」
 美佳は、俯いたまま軽く首を振る。
 そう言えば、梅観音との対面に心を取られすぎて、美佳の様子を気にしてやる余裕があまりなかった。せっかく念願の梅観音を見つけることができたのに、どこか浮かない表情をしているように思える。
「なあ、美佳ちゃん」
 歩みを止めて、美佳の前にしゃがみ込むと、にっこりと微笑んで見せる。
「な~んも遠慮なんかすることはないんやで。おっちゃんらは、美佳ちゃんが喜んでくれることが一番嬉しいんやから。もし何か気になることがあるんやったら、どんなことでもええから言うてみ?」
「あのね……」
「うん」
「そうだけど、そうじゃないの……」
「ん?」
「そうだけどね、そうじゃないの」
「……どういうことかな?」
「あのね……あのかんのんさまじゃないの。あたしが探してたのは、あのかんのんさま じゃないの。あたしね、おばあちゃんといっしょに、行ったことあるの。うめかんのんさまに、お参りしたことがあるの。あのかんのんさま じゃなかった。うめかんのんさま、べつの所にもあるのよ」


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