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秋月夜(12)

     六(承前)

 仏前に向かって端座し、その男性は、かなり長い間手を合わせ、瞑目していた。
 清水晃(きよみずあきら)と名乗ったその男性は、長野県からバイクで、世話になった人や会いたい人に挨拶して回ってるらしい。「おっと、“終活”なんてもんじゃないぜ」男性は笑う。「その逆だ。もう良い年なんだが、新しい仕事立ち上げる気になってな。おれはなんとか生きてますってことを、みんなにちゃんと知らせときたくなったんだ」
 もう還暦は過ぎているらしいが、髪も黒々として、せいぜい五十代初めにしか見えない。小柄だが、身体には贅肉がなく引き締まっており、ハイミドルとは思えない活力を感じさせる。
「ん、もしかして、これは……」ガラス皿に取られた梅の甘露煮を一つ口に入れ、男性は歎声を漏らす。
「はい、祖母が作ったものです。ありがとうございます、分かっていただけて」
「やっぱり、そうか……」大切に、一味一味を確かめるように、男性は噛みしめる。
「静枝さんの料理、美味しくてなあ。今でもよく想い出すんだ」遠い眼をして、男性は微笑む。
「もう十何年も前になるが、あの時もおれは、行くあてのない気ままな旅の途中でな、てっきり料理屋だと思って入っちまって、実際たらふくご馳走になってるのに、料金はいただけませんって言うから、そりゃあいけねえ、そう言う訳には行かねえってことで、家の補修とか、畑の手伝いとかしてるうちに、ついつい長居しちまって。おっと、決して妙な下心があった訳じゃないんだぜ」
「分かってます。そう言う方多いんですよ」
「料理は美味いし、どんな高級旅館よりも居心地良くてなあ、結局一週間ほど滞在しちまったかな。いろいろあったおれの人生の中でも、ちょっと特別な、想い出深い一週間なんだ」
 そう言って、男性は笑う。あまり多弁で愛想の良いタイプではないが、その分言葉に実情がこもっており、時折ふっと細める褐色の瞳には、えもいわれぬ優しさがのぞく。
「こんにちは」
 来客とみて、健吾が遠慮がちに顔を見せる。男性と簡単に会釈を交わすが、お互いに好印象を持ったことがなんとなく分かる。
「表のバイク、おじさんのですか?」
「おう、そうだが」
「ええバイクですね」
「そうだろ? 中古なんだがよく走ってくれるよ。兄さんもバイク乗るのかい?」
「昔乗ってたんですけど、手放してしもて」
「良かったら乗ってみるかい?」
「ええんですか!」
「あ、これは健吾。あたしの同志というかツレです。こちらは清水(きよみず)さん。おばあちゃんの古い知り合いでね、長野からバイクでいらしたの」そうだ……と、美佳は思っている。彼の褐色の瞳、どこか既視感があると思ったら、健吾の瞳にすごく似ているんだ。
「良かったら、アキラって呼んでくれないか。好きなキャラクターと同じ名でね、気に入ってるんだ」
「小林旭?! 父さん渡り鳥シリーズ好きでした」
「それは俳優だろ? 犬神明ってんだが、知らないよな」
「平井和正! ウルフガイシリーズ!」
「おお、兄さんヒライストか。話が合いそうだ」
「あ、じゃあ、アキラさん、お昼食べて行かれますよね?」
「いやいや、そんなつもりじゃないんだ! もう用は済んだし、おいとまするよ」
「実はですねえ、今度この家で料理屋さん開くことになってまして、モニターって言ったら失礼なんですけれど、いろんな方に召し上がっていただいて、忌憚のないご意見伺えたらこちらも嬉しいんですけれど」
「そうなのかい! そりゃあ良い! そういうことなら、遠慮なくご馳走になろうかな」
「はい。準備しますね!」
「ああ、そや、美佳ちゃん、工務店の件やけど」
「ああ、ええ、どうだった?」
「やっぱり、他の工事入れ込むのは難しそうやわ。戸建ての下請けの仕事がきっちり詰まってるみたいでな、オープンまでに仕上げるのは無理やなあって」
「そうかあ……残念」
「まあどうしても必要な部分ではないしさあ、オープンしてちょっと落ち着いてからでもええんちゃうのん?」
「う〜ん、そうなんだけどねえ……。健吾は作れないよねえ?」
「う〜ん、なんちゃってやったらできるやろけど、お客さんに座ってもらうとこやろ? 無理やろなあ」
「どっかから、流しの大工みたいな人、現れないかしら。ほら、“ギターを背負った渡り鳥”的な。『おりゃあ大工なんだが、よかったら手伝わせてくんねえかい?』とか言って」
「なんなん、そのやっすいイメージ」
「安いって……」
「なあ、あんたら、横からすまないが、もしかして、大工を探してるのかい?」アキラが控えめに声をかける。
「おれは大工なんだが、よかったら手伝わせてくれないかな?」

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