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『咲く花に寄す』 その6

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 その後の行程は、幼児を歩かせるには負担が大きすぎるため、家の酒屋から配達用のバンを調達した。
 それぞれ別地区にある、西海寺と深興寺を訪ねてみたが、やはり梅観音に相当する仏さまも、それを想わせる伝承すらも、心当たりはないと言うことだった。
 深興寺は一ノ瀬家の菩提寺であり、頻繁に訪れているはずなのに、本堂の他に、諸仏を収めた小さな仏堂があることを初めて意識した。
 明治の廃仏毀釈の際に、もともと近くのいくつかの神社で祀られていた仏像を、こちらに移したものらしい。
 中央の比較的大きな大日如来の周囲に、様々な像が安置されていて、これはもしや! と期待させられたが、お不動さまや十一面観音といった、普通の様式の仏像しか祀られていなかった。
 みかの母親との約束の時間が近づいており、駆け足の訪問となり、住職からゆっくり話を聞く時間が取れないのが心残りだった。また何か情報がありそうなら連絡すると、ジャージ姿の住職は親切に申し出てくれた。

 バンが店の入り口に横付けした時には、約束の時間ギリギリになってしまっていた。スライドドアを開けて、まず自分が降り立ってから、みかが降りるのを手助けしてやる。
 紺色ののれんをくぐって、擦りガラスのはまった木戸を開くと、上がりかまちに腰掛けていた女性がスッと立ち上がるのが見える。
 彼の長い脚に隠れるようにして、おずおずと顔を現したみかの様子を見て、女性はハーっと深い息をつき、顔を伏せてしまう。無事だと言う知らせは聞いていても、実際に姿を見るまでは安心できなかったのだろう。
 思わず我が子に駆け寄るそぶりを見せるが、他者の存在を意識したのか自制する。きっと抑制の効いた、理性的な人物なんだろうと思う。
「一ノ瀬さんでらっしゃいますか。私、美佳の母親で杉吉と申します。このたびは、美佳が大変お世話になりまして、なんてお礼を申し上げていいか……」
 暗色系のシックな洋服を着こなした細身の身体を正して、ぺこりとお辞儀をする。世慣れた物腰や理知的な容姿は、女性の持つキャリアを感じさせる。鼻筋の通ったなかなかの美人で、意思的な黒瞳がみかによく似ている。
「いえいえ、お世話なんてとんでもない。時間だけはたっぷりありますさかい、みかちゃんの探しもののお手伝いができて、ぼくも楽しませてもらいました」
 あえて軽い口調でそう伝える。
「叔父が……如月竜弥が、くれぐれもよろしくと申しておりました。商工会で、大変お世話になっているそうで」
「ほう如月さんが?」
 伏見の全国的に有名な酒蔵である、如月酒造の先代社長の押し出しのきく容貌を想起する。
「はい。如月は母の生家なんです。母が伏見の病院に入院していることもあって、私たちもしばらく如月の家に世話になっておりまして」
「そうですか、如月さんの……。やっぱり……そうでしたか」
「やっぱり、とおっしゃいますと?」
「ああ、いえ、深い意味はないんです。伏見いうてはったから、もしかして、思てただけで……」
 曖昧に言葉を濁して、意識して頬に笑みを浮かべる。
「美佳、あなたは……」
 ふっとため息をつくと、女性は靴音を立ててみかに詰め寄り、キッと怒りを込めた視線で見下ろす。
「いったい、どれだけの人に迷惑かけたと思ってるの! なんにも言わないで、勝手にいなくなって。みんな……みんな、どれだけ心配したと思ってるの? 伏見のおばさんなんか、ご飯も食べられないであなたのことを探してくれてたのよ。おばさんだけじゃないわ、店のみんなも仕事の手を止めて、心当たりをあちこち。どうしても見つからないから、警察に連絡するところだったのよ」
 きつい叱責を浴びながら、みかは下唇をギュッと噛みしめて、母の足元に視線を落としている。
「一人で電車に乗って、こんな所まで来てるなんて、もう信じられない! 何かあったらどうするつもりなの? たまたま良い人に助けてもらえたから良いけど、迷子になってたらどうするつもりなの? 怖い人もいっぱいいるのよ? もし、電車のホームから落ちてたら、車にひかれてたら、あなたどうするつもりだったの?」
「まあまあ、奥さん、お気持ちはよう分かりますけど、そのへんにしといたげてもらえませんか」
 つとめて穏やかな声を出して、母親に笑いかける。
「わたしねえ、みかちゃんの心情を想たら、もういじらしいてたまらんのですわ。おばあさんが、心配で心配で、藁にもすがる思いで、観音さまに祈願しよ思て、こんなとこまで一人で来たんでしょう。六歳の女の子が、誰にも頼らんと一人で。大冒険ですやん。大人からしたら、なんてあほなって思いますけど、みかちゃんのこの優しさと勇気に、心底感動してるんですわ。だからどうか、このわたしに免じて、それ以上は……」
 長い体躯を折ってペコリと頭を下げる彼の言葉を受けて、女性は蒼白な顔を少しうつむける。
「ねえ、奥さん、みかちゃんの言う“うめかんのんさま”について、何かご存知ありませんか? なんでも、この逢谷にあって、お願いごとを叶えてくれはるって言う、ありがたい観音さまやそうなんですが」
「さあ、何も……。母がこんな場所にご縁があったということも、初めて聞いたんです」
「そうですか。今日はいくつかお寺をあたってみたんですが、残念ながら見つけられへんかったんです。ちょっと気になるんで、また探してみたいと思てるんですが、みなさんあとどれくらいこっちに居はるんですか?」
「それが、私仕事を持ってまして、どうしても今日中には帰らないといけないんです」
 そう言って、ちらりと左腕にはめた腕時計を見る。
 黒光りする年代物の上がりかまちには、黒いボストンバッグと子供用の黄色いバッグが並べて置いてある。おそらくこの足で東京に帰るつもりなのだろう。
「いや。いや! わたし、とうきょうのおうちにはかえらない」
「美佳?」
「わたし、うめかんのんさまさがして、おばあちゃんのびょうきをなおして下さいっておねがいするの。しなきゃならないの」
「美佳、ちゃんと約束したでしょう? お母さん、どうしてもお仕事の用事があるから、今日はいったんお家に帰りましょうって。用事が済んだら、また連れてきてあげるから。ね」
「いや。わたし、かえらない」
「じゃあどうするの。美佳一人で伏見のおじさん家に泊まる? おじさん家好きじゃないって美佳言ってたでしょう? お風呂も、お着替えも、自分のこと、全部一人でできるのね?」
「いや。いやなの……」
 頬を真っ赤にそめて、首を横に振る。瞳から大粒の涙がポロポロと溢れてくる。
「わがまま言うんじゃありません! もう、勝手にしなさい!」
「ねえ、お母さん、よかったら、次に京都来はる時まで、みかちゃんうちで預からせてもらいましょか?」
「えっ?」
「今回のことは、この子なりに、どうしてもせなならんって言う、切実な思いがあるみたいで、出来ることならそれを叶えてやりたいんですよ。幸い、わたしも楽隠居の身で自由がききますし、このへんのことには詳しいですし、ガイド役には最適や思うんです。みかちゃんもすっかりなついてくれてますしね」
「でも、初対面の方に、そこまで甘える訳には……」
「初対面いうても、如月さんのお身内の方なら、うちとも親戚みたいなもんですよ。うちも坊主ばっかりでむさ苦しいですから、こんな可愛い女の子がいてくれたら、お姫様待遇ですよ。なあ清恵さん」
 帳場に通じるのれんの奥で、それとなく様子をうかがっていた嫁の清恵に声をかけると、恥ずかしそうにふくよかな顔を現して、にこりとみかに向かって笑いかける。
 みかの母親は、眉をひそめてしばらく考えている。もう一度チラリと腕時計を見る。今日中に東京に戻るには、ギリギリの時間になっている。
「そうさせてもらう? 美佳?」
 少し顔を傾げて考えていたみかは、まだ涙がいっぱいにたまった瞳を真っ直ぐに母に向けて、コクリと頷く。


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