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『咲く花に寄す』 その17
13
自転車を押しながら、逢谷梅林を抜ける小径をゆっくりと歩いてゆく。立春大吉のこの日は快晴で、山裾を覆う竹林の上には、鮮やかな青空が広がっている。
いまだ寒さは厳しいものの、頭上に輝く太陽には、はっきりと春の陽気が感じられる。今年の冬は特に寒く、右側の斜面に広がる梅林も、蕾は膨らみつつあるものの、まだ開花の気配はない。黄緑の羽毛も鮮やかな一羽のメジロが、枝々を飛び回って遊んでいるのが見える。お互い春が待ち遠しいよな……と、心の中で語りかける。
「ねえ、けんちゃんは?」
左横を歩いていた美佳が口を開く。薄紫の子供用のマフラーに埋めたほっぺが、紅く染まっている。
「ああ、あいつなあ、今日学校やねん。サボる気満々やってんけどな、ばあさんに見透かされて、朝から説教くらいよって、ほら、もう朝ご飯の時にはぶす~っとしとったやろう。今日が最後やいうのに、ちゃんと挨拶もできんで、すまんかったな。また遊んだってな」
こくりとうなずく美佳を、面白そうに見下ろす。
年齢も性別も性格も違うデコボココンビだが、とても気が合うようで、昨夜も寝る直前まで、ゲームやら何やらで仲良く遊んでたらしい。せっかく見つけた姫がいなくなると、健吾もさぞかし寂しいだろう。このまま二人が仲良くなってくれれば面白いのになと思う。
昨日、賀茂神社から帰宅してから、改めて美佳の話を聞いてみた。
“うめかんのんさま”には祖母と訪れたことがあるが、その際「おばあちゃんと美佳だけの内緒にしててね」と、約束を交した為、どうしてもそのことを彼に言えなかった……。
おそらく、一緒に探してくれた上、ついに神社の梅観音を見つけて喜ぶ彼の姿を見て、小さな胸を痛めていたのだろう。祖母との約束と、自分自身の気持ちと、彼への気遣いに板挟みになっていた美佳の心情を思うと、いじらしくて仕方がない。
改めて思うに、6歳の幼女が「うめかんのん」という言葉だけを頼りに、全く未知の場所に出向くとは考えにくい。祖母と一緒に訪れたことがあり、記憶を頼りに行ける気がしたから、探索の冒険に踏み切ったのだろう。
本命の“うめかんのん”は、寺の中ではなく、山の中に鎮座する石仏らしい。
観音像と聞いて、寺にあると思い込んでしまった自分の早とちりだった訳だが、しかし、賀茂神社の梅観音にたどり着けた行程が、無駄だったとは全く思えない。むしろ、不思議な運命の綾に導かれた、出逢うべくして出逢った必然だったように思う。
今日の夕方、美佳の母親と、伏見の病院で落ち合う手はずになっており、美佳と一緒に探索できるのも、午前中一杯がリミットになる。
残された時間は少ないが、不思議と焦りは全くない。このまま流れに従っていれば、最善の結果に辿り着くことができる……そんな穏やかな確信が彼にはある。
「なあ、美佳ちゃん、この道はな、むか~し昔、おっちゃんの好きな人と一緒に歩いた道やねん」
穏やかな微笑みを浮かべて、彼はそう言う。
「今日は、闇雲に観音さまを探し回るんやなくて、その人と歩いた道を、美佳ちゃんにも案内したげたいと思う。それが、うめかんのんさまを探す、ヒントにもなる気ぃすんねん。それでええかな?」
美佳は、右上の彼を見上げて、こくりとうなずく。
「なあ、美佳ちゃん、おっちゃん、昔話をしたい思うねんけど、歩きながら聞いてくれるかな。多分、分からへんことの方が多いと思うけど、聞き流してくれたらええし」
どこか近くの枝で、ウグイスが大きな鳴き声を上げる。まだかなりぎこちないけれど、春の到来を告げるような印象的な鳴き声だった。
「昔むかし、おっちゃんがまだ若い頃、結婚の約束をしてた人がいたんや。それは綺麗な人でなあ。おっちゃん、一眼見て好きになってしもた。
その人は大店の娘さんでな、ええとこのぼんとの婚約があってんけど、なんやおっちゃんのこと見染めてくれたみたいで、その婚約を破棄して、おっちゃんと一緒になる言うてくれた。見た目は深窓の令嬢さながらやのに、気の強うて何しでかすか分からん所のある、ほんま面白い人やった。
なあ、美佳ちゃん、戦争って知ってるかな?」
「うん。おばあちゃんから聞いたことがある」
「そうか。それはしんどい、むごいことがあったし、ぎょうさんの人が亡くなった。今でも、しんどい気持ちを抱えてる人がぎょうさんおるんやで。
おっちゃんらが結婚しようとしてたちょうどその頃に、戦争が始まった。周りのみんなは、早う結婚しろて、口をそろえて言いよったけど、いつ戦争に取られて、命を亡くすかも分からん状況で、あの人と結婚するのは嫌やったんや。
ほどなく、召集令状がきて、戦争に行くことになった。
出征の日も決まって、準備もし終わって、最後の思い出に、あの人とこの逢谷梅林を巡ったんや。
あれは……数年に一度の花の当たり年でな、それは綺麗やったで。大げさやのうて、咲き誇る白梅で、村一面が白い雲に覆われてるみたいやった。
今は……ほら、この左側は、ぜんぶ砂利採集場に削られてしもてるけど、昔はこっちにも山が連なってて、その斜面一帯も梅林になってたんや。そら壮観やったで。
あの時のおっちゃんは、この世の最後の見納めのつもりやったから、余計に心に残ってるのかも知れんな。あの風景が……あの人と一緒に過ごせたひと時が、あんまり幸せやったから、これで死んでも悔いはないって、そう本気で思ってた」
満開の梅林に佇んで、花の精霊みたいな儚い微笑みを浮かべていた、あの人の姿を思い出す。とっくに風化したと思っていた甘やかな感情が、胸の奥で疼く。
「おばあちゃんも言ってたよ。おばあちゃんもね、大好きな人にここの梅林をあんないしてもらったことがあるんだって。とってもきれいだったって言ってた」
「そうか。そう言うてはったか」
そっと瞳を細めて、美佳を見つめる。
「今はだいぶ規模も小さくなってしもたけど、まだまだ見所はあるんやで。そやなあ、あと一ヶ月もしたら、花も綺麗に咲いてたやろに。なあ、美佳ちゃん、もしおっきくなって、まだこの逢谷のこと覚えてたら、また梅林を観にくるんやで。その時……もうおっちゃんがいなくなってたとしても、きっと健吾のやつが、美佳ちゃんのこと案内してくれるわ」
「あ! お花さいてる!」
美佳は叫ぶと、小高くなっている梅林に小走りで入ってゆく。
「おう、ほんまやなあ」
自転車を脇に停めて、彼もふかふかした土を踏み締めて、その梅の木に歩み寄る。5メートルほど横に広げた枝先に、ほんの一輪、純白の花弁を開いている。
「美佳ちゃん、よう見つけたなあ。これは幸先ええで」
「うふふ」
「写真撮っとこか。はい、そんまま~。をを、めっちゃええお顔やで」
ショルダーバッグからペンタックスを取り出し、絞りを締め気味にしてから、美佳の天衣無縫の笑顔にピントを合わせる。
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